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法廷傍聴控え 拳銃密造事件3

 3、4年前のことだった。中村は昔の知り合いと久し振りに会った。かれは運送屋を経営しているということだった。中村がモデルガンの趣味を持っていて、昔、改造モデルガンで事件を起こしたことも知っていた。
 91年1月のある日、その運送屋が1丁の拳銃を持ってきた。手に取ってみると本物である。中村にとって、本物をみるのは初めてだった。「直してくれ」と運送屋がいう。プラスチックでできている銃把の側板が少しぐらぐらしている。これぐらいなら、朝飯前だ。止め金を細工して直してやった。
 すると、運送屋は、「この拳銃を預かってくれ」と頼む。中村は本物の拳銃を預かれば、法律に違反することはわかっていた。しかし、モデルガンを趣味としていたし、本物に非常に興味があった。預かるだけならばと承諾したのである。
 中村の趣味を熟知している運送屋が、密造に引きずり込むための作戦だったのだろうか。しばらくすると、今度は、「モデルガンを改造してほしい」と運送屋がいってきた。拳銃を預かったことで脅されたということはなかったが、中村は禁断のはずの仕事を請け負ったのである。これも中村にとってはたやすい仕事だ。
「本物らしくしてくれ」という依頼だったので、プラスチック製の銃身を鉄のパイプに変えた。弾も鉛でつくったが、本物の弾を撃てるように改造したわけではなかったそうだ。エアーガンの能力をアップする改造なども世間ではよくやられている。この程度なら大人の遊びの範疇だから構わないだろうと思ったのかもしれない。
 しかし、このころ、中村は運送屋から、「好きなように使っていい」と300万円を渡された。拳銃の修理や改造の謝礼かと思ったが、それにしては多すぎる。300万円は妻に預けておいた。ここで、やめておけばよかったのだが、金を受け取ったことで後には引けないことになった。
 改造拳銃が2、3丁完成したので、91年の8月半ばごろ、運送屋の部屋で試射を行った。モデルガン用の薬莢に火薬を詰め、鉛の弾をセットして発射した。
 中村はこの点もプロである。火薬の量が多いので拳銃を手に持って撃つと危ないと判断し、固定した改造拳銃を木の箱でおおい、週刊誌に向けて発射した。殺傷能力はあまり考慮しなかったというだけに、表紙を破ったぐらいで威力のないものだった。改造拳銃は予想したとおりばらばらに壊れた。残りの改造拳銃は運送屋が処分したという。
 試射したとき、運送屋ともう1人、男がいた。2人の会話が中村の耳に入ってくる。そこに暴力団らしい組の名前がしきりに出てくる。それで、運送屋をやっているというが、実は暴力団関係者だとわかったそうだ。

 しかし、時はすでに遅かった。改造拳銃が試射で壊れたのを見た運送屋こと暴力団の組員が、「こんなものじゃだめだ。鉄で最初からつくれ。そうしないと殺す」と脅したのである。
 しかも、その数は50丁と指示した。中村のいうところによれば、運送屋はほんとうに人を殺しかねない男だという。このとき、「殺す」対象は中村だけだったが、後には家族も殺すとエスカレートし、脅迫されて密造をやらざるを得なかったそうだ。いくらモデルガンが趣味といっても、本物の拳銃をしこしこと楽しみながらつくったわけではないと弁解した。
 密造に着手した中村は、設計図を書いたり、銃身に使う鉄の丸棒、本体などに使う鉄の板や鉄の角棒を仕入れた。その代金は、運送屋からもらった300万円の中から70万円ほどをあてた。その後、運送屋が、「急に金がいるようになったから、この間の金を渡してくれ」といってきたので、「そうか、わかった」と残りの230万円を返した。

 この時点で、中村は密造に関してまったく利益を得ていないことになった。やはり脅されてつくったのか。

 中村の密造工場は、当時働いていた埼玉県内の金型の製作所だった。埼玉県西部の私鉄の駅から歩いて20分、2車線のバス通りに面して、間口15メートル、奥行き10メートルぐらいの平屋で、プラスチック精密金型の設計製作をしている。従業員数名の町工場だ。
 ここで部品を製造し、2カ月ほどたった10月ごろ、10丁ぐらい“手づくり拳銃”ができあがった。しかし、中村自身は不満だった。一言でいえばできがよくなかった。具体的に指摘すれば、アメリカなどの本物の拳銃と比べてデザイン的に見劣りする。また、弾倉を完全に固定していないので、弾を装填するとき出し入れが困難だったり、機能的にも問題があったという。
 中村の満足するものではなかったが、できあがった拳銃は工場の中で試射することになった。運送屋と運送屋の知り合いも立ち会った。運送屋が拳銃を持ち、18リットルの油缶を逆さまに置いて、上になった缶の底に木片を置いて撃った。弾は発射され木片に当たりはね返ってつぶれた。

 10丁つくったが、最終的に運送屋が合格と判定したのは2丁だったそうだ。不合格になった他の拳銃は分解して捨てた。
 そのころ、密造工場として使っていた製作所の社長が、中村のおかしな仕事振りに不審を抱くようになった。社長の家は、工場から離れたところにあるが、工場の近所の人から「夜中も電気がついている」という話を聞いた。そのうち、中村の受け持っている仕事が遅れだした。
「こっちは納期が遅れてお客さんに謝っているのに、なんだ。よく徹夜するようだが、そんなことでは翌日の仕事にも差し支える」と中村に注意した。社長は中村がアルバイトでもやっているのかと思った。工場が休みのある日曜日、工場に行ってみると、中村がいて、工場ではつくるはずのない部品をつくっている。
 やはり、アルバイトか、それとも、中村がモデルガンの好きなことはわかっていたし、この会社に来る前にも水中銃のメーカーにいたとか聞いたことがあったので、モデルガンをつくっているようだと思った。それで、「こんなことでは困る」と社長は中村を首にした。
 中村が会社を首になったので、新しい密造工場を探さなくてはならない。運送屋は福島県内の鉄工所を見つけてきた。中村のまったくしらない鉄工所だったが、ここで拳銃の密造を再開した。11月中旬、鉄工所経営者は中村から拳銃を見せられ、事情を聞かされた。拳銃を密造していると聞いて驚いた。
「出ていってくれ」と中村に再三頼んだ。運送屋は黙って逃げ出せば殺すといっている。自分はどうなってもいいが、家族にも危害が及ぶかもしれないと、中村は踏ん切りがつかなかった。
 しかし、11月下旬、「もうじきヤクザがくる。仕上げて渡さなければならなくなる。中村さん、逃げてくれ」と鉄工所経営者にいわれた。中村はようやく決心した。「よし、逃げるよ。ヤクザがきたら中村が拳銃を持っていったといってくれ」と頼んで、完成した拳銃1丁や部品などを入れた段ボール箱を、「捨ててくれ」と残して去った。
 鉄工所を逃げ出した中村は、家には帰らず群馬県内の建設現場で働いた。12月の終わりに、家族が心配で埼玉県内の団地にある自宅に戻った。家族には何事もなかったので安心して、別の仕事を見つけて自宅から通いはじめた。それでも運送屋の動きが気にかかったので、鉄工所に電話してみたが心配はいらないようだった。運送屋もあきらめたらしい。
 この間、中村は拳銃づくりだけではなく、別の拳銃の修理をしたり、サイレンサーの製造も頼まれたが、ようやく運送屋との縁が切れたと思った。

 しかし、年があけた92年1月、中村が仕事から帰ってきたら、妻から「運送屋から電話があった」と告げられた。「出てこい」という伝言だ。放っておくと家族のことが心配だから、仕方なく運送屋と会った。
「拳銃を最後までつくらなかったから3000万円出せ。払わなければお前も家族も殺すぞ」
 こういわれても、中村に払う金はない。すると、分割して払えとか、サラ金からでも金を借りて払わせるつもりか印鑑と印鑑証明をもって来いなどと要求する。中村は金を払わなかった。
 このまま家にいれば、また拳銃づくりに引き込まれると思って、中村は自宅から逃げ出した。それをしった運送屋から、「中村に連絡をとれ」と家に頻繁に電話がかかってきた。そうしないと、こどもを痛めつけると脅されたこともあった。電話の主はいつも違う名前を名乗っていたが、妻は声で同じ人物だとわかったという。
 2月中旬の真夜中のことだった。団地の家のベランダ側の部屋の窓ガラスが8枚ぐらい、棒のようなもので片っ端から割られたのである。その部屋の窓側で寝ていた次男の顔にガラスの粉が降りかかった。カーテンを引いていたから怪我はなかったそうだ。数十秒の間だったが、妻とこどもたちは怖くて震えていたという。この事件の翌朝も、「連絡をとったか」と電話がかかってきた。
 そのとき、中村は栃木県内の会社で働いていた。妻から、「夜、ガラスを割られた」と連絡があり、家族が危ないとすぐに自宅に帰った。中村は警察に行って全部話すつもりだった。しかし、妻は運送屋の仕返しを恐れたし、生活やこどもの将来もあると止められ、中村は自首をあきらめたのである。
 ただ、自宅は極めて危険なので、働いていた会社の社長に頼んで、2月下旬、会社の寮に引っ越した。それからは運送屋の連絡は途絶えたそうだ。
 中村はすっかり拳銃の密造をやめたが、運送屋から預かった火薬をとるための散弾や見本にする拳銃の弾はとっておいた。これが銃身や設計メモと一緒に押収され、今後も密造する計画があったと推定され、厳しく追及された。
 たしかに、密造から手を引いたならば、これらの物はすべて処分するのが普通の感覚である。ところが、いずれ逮捕されると覚悟していた中村は、そのときの弁解のためにわざわざ残しておいたという。つまり、密造は自分の意思でやったものではなく、運送屋に強制されてつくった証拠というわけだ。中村には散弾や拳銃の弾を入手できる方法がないからだという。
 ところで、中村の密造拳銃が鉄工所から1丁押収され、その威力を確認するために警察で試射された。約5センチの距離から1枚12ミリの杉の柾目板を重ねたものに発射したところ、6枚も貫通したそうだ。やはり、拳銃づくりのプロの作品といえるのだろう。
 結局、中村のつくった拳銃は2丁だけで、残りの1丁は運送屋が持っていったという。十分、殺傷能力を持つ“中村作品”が暴力団の手にあるわけだ。
 逮捕された中村は運送屋の名前をどうしても供述しない。「私の本心はぜひ申し上げて逮捕されるのを心から願うが、家族への報復を考えるといえない。本当に残念」と頭を下げ、「本物の拳銃に興味をもって、最初にトカレフを預かったのが一番のミスだった」と悔やんでいた。

 さて、裁判だが、検察官は、「50丁の注文を受け、10丁は組み立て段階にあった」「注文主の名前をいわない。悲惨な事件の発生を防ぐためにもいうべきだ」「拳銃マニアの興味的な拳銃製造ではない」などとして、懲役4年を求刑した。
 一方、弁護人は、「趣味や利益めあてではなく、ヤクザから脅されてやったこと」などと寛大な判決を求めた。中村は改めて謝罪し、結審した。
 8月4日、判決が言い渡されたが、「反省の情も顕著であり、事件を起こすまで、まじめに働いてきて、家庭でもいい父親だった」などと有利な事情もくんで、懲役3年であった。(了)

(2021年11月26日まとめ・人名は仮名)

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