慰安婦 戦記1000冊の証言29 5人の女
昭和20年9月6日、ニューブリテン島ラバウルで、第8方面軍司令官今村均大将と南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将が、オーストラリア軍第1軍司令官との間で降伏文書に調印した。
「ここに特筆すべきことは、この(日本軍)9万余の大捕虜団の中に、5名の女子軍属?が含まれていたことだ。彼女達の任務が何であったか、私は寡聞にしてその真相を知らない。
外界から遮断された孤島で、辛うじて生き残った5人の女性達。よくぞ最後まで頑張ったものよ。天晴れなり婦人部隊?と感服している。
彼女等がラバウルを引揚げてからの消息は一切不明だ。彼女達の健在を祈ってやまない一人である」(1)
「5人の女性がいた」というラバウル勤務の海軍下士官の証言。ただし、調印時、負傷・後送されていたため、後に聞き知った話である。
戦争後期、ラバウルに「3人の女性」がいたという話はかなり伝えられている。その事情を詳しく証言するのは、陸軍独立飛行第83中隊の整備下士官で、昭和18年11月、ラバウルに到着、曹長で敗戦を迎える。
ラバウルの日本軍は、敵の大空襲を予期していたのだろう、「昭和18年の12月早々、看護婦が病院船に乗り込み、二度と帰ってこなかったし、つづいて慰安婦の後方への送還が強行されたからであった。
慰安婦たちは3回か4回に分かれて乗船した。そのうちで2組は、白衣に変装して病院船に乗った。私が気づいたときは、もうラバウルには日本人女性も朝鮮人女性も、一人もいなかった」。(2)
後方送還された朝鮮人慰安婦の証言。
ラバウルから「乗船して1週間くらいたったころ」撃沈され、救助後、再びラバウルへ戻る。慰安婦生活を続け、再度、ラバウルを出港するも、2回目も攻撃を受けたが、「素早く救助され」、「ラバウルに戻らずパラオに出て」「再び船に乗り」「新暦のお正月(昭和19年)に下関に到着しました」(3)。
「慰問団だから」と騙されたが、九死に一生を得た人もいたのだ。
さて、前述の陸軍整備下士官、「一人もいなかった」はずなのに、海軍兵から女性の存在を知らされる。
「『1月に最後の船で慰安婦が40人ぐらい後送されたでしょう。あの船が出航後まもなく潜水艦にやられて、みな死んだんですよ。ところが2人だけ、ラバウルに近い海岸まで泳ぎついたんですよ』」
「『一人は和歌山の漁師の娘で、歩くより泳ぐ方が楽だという末子。もう一人は沖縄の女で、年増だが人気のあった正子。ああ、陸軍さんは知らんですね、海軍の慰安婦ですから』」
2人でも驚いたのだが、「『それが、もう一人おるんですよ』」「『軍に徴発された漁船の女ですがね、亭主や子供ごと徴発されてきたのが、船が撃沈されて、女房だけ生き残っていたんですよ。
それが、最後の輸送船が出たあとになって、のこのこラバウルへ帰ってきたわけで、年は32、3だというんですが、なかなか色気のある女房ですよ』」。
その海軍兵の話によると、この3人は、元の海軍司政官宿舎の後ろにある、ニッパ葺きの小屋に住んでいるという。3人とも一切外出禁止で、10人以上の歩哨が見張っていて、うっかり近づくと撃ち殺されるそうだ。
「『夜になると何十人、何百人という兵隊が、ごそごそ群がり寄るので、時々歩哨が小銃を発砲しますよ。銃声ぐらいは聞いたことがあるでしょう』」「たしかに真夜中、銃声を聞いたことがある」
海軍兵の話を確かめようと、ニッパ葺きの小さな小屋に行ってみる。小屋は鉄条網で囲われ、出入り口に分哨小屋があり、歩哨が立っていた」
「『兵隊さあん……』と女の声がした」
「一人、女が立っていた。濃緑色の着物を着ており、周囲の草木にまぎれ、それまで見えなかったのである。と、兵隊が2人、小屋から走り出て、その小山へ駆け上がった」
「『おい、近寄るな』と鉄条網の外づたいに走り寄った歩哨が、どすのきいた声で怒鳴った。小銃を持っており、鉄帽を肩に斜めに縛りつけていた」(2)
別の話によると、「着剣し、装弾した哨兵が、その宿舎の入口に立った。だが、性に飢える兵隊の臭覚は、猟犬よりも敏感であった。
噂は噂を呼んで、深夜ひそかに訪れる兵隊は、数限りなく、終戦までに、2名もの犠牲者を出していた。
別に女性をどうこうして、おのれが本能をみたそうというのではなかった。ただ、なんとなく来たものらしく、『女房を思い出そうとしたんです』と、歩哨に射たれて息を引き取った中年の兵隊はいったという」(4)
助かった2人の慰安婦について、ラバウルで絵描き兵となり、その体験を通し、「イラストで描いた太平洋戦争一兵士の記録」を描いた滝口岩夫の証言もある。
「慰安婦たちは輸送船で日本に帰る途中、米軍機の空からの攻撃に遭い、大勢が太平洋の海底へ船と共に旅立った。
その途中で奇跡的に助かった2人の慰安婦は、ラバウル市内にたどり着くと、日本陸海軍兵数十万人男ばかりの基地の中で男装して生き延びていた。
服装は、兵隊の普段着に髪は短く、頭と手は包帯姿で、今はもう誰もいない元慰安所の表に立っていた」
さらに、慰安所の親方の最期も証言する。
「米空軍の大爆撃でラバウルに住めなくなった彼(慰安所の親方)は、ラバウル発日本行きの輸送船に乗ったが、米軍機の爆撃で海中に。
彼は一度、無事甲板まで逃げたが、船底に残した金庫を取りに戻り、お金を持ったまま海底へ沈み、帰らぬ人となったと、生き残った2人の慰安婦から聞いた」
その後の「2人の女性の生活は兵隊たちには秘密だったが、将官たちの相手をしていたという話を聞いた」(5)
前述の整備下士官証言と食い違っているような感じもするが、実態はどうだったであろうか。「漁船の女房」は目にしなかったのだろうか。
ともあれ、「3人の女性」の存在はわかるが、あとの2人は誰だろう。
ある海軍軍医の日記を読んでみる。昭和17年12月9日の欄に……。
「1100、カビエン無事入港。2、3日前、夜、敵機の空爆により、カビエンの陸上にあった慰安所3戸はすっかり跡形もなく破壊され、7名の死者と数名の死傷者を出したと。
なにしろ、ダイナマイトの倉庫に爆弾命中したので、慰安所が吹き飛んだそうだ。13噸ものダイナマイトが一度に爆発すればたまらぬ。大きな池が出来たと」(6)
ラビエンとは、ラバウルのあるニューブリテン島の北隣、ニューアイルランド島にある町だ。ラバウル同様、空襲が始まっていた。それから、1年数か月後、ラバウル第八海軍病院は新しい患者を迎え入れる。
昭和19年4月のことだった。同病院の軍医中佐の証言。
「4月23日」「昨夜、カビエンから患者70名余入院中に紅2点。久しぶりに日本女性を見る。逃げて来る途中で3人中の1人は土人にさらわれた由」(7)
この時期、カビエンからの「紅2点」、慰安婦だったのか。
ラバウルから日本に女性を送り出した最終船が、19年1月ごろだったから、この2人は敗戦までラバウルに残留していた可能性が高い。すると、3人に加えて2人だと、5人になる勘定だ。
《引用資料》1,油谷彦一郎「随筆集海軍下士官兵物語」私家版・1975年。2,白根雄三「ラバウル最後の一機」日本文華社・1967年。3,韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会「証言――強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店・1993年。4,池田佑編『秘録大東亜戦史・改訂縮刷決定版・第1巻・開戦太平洋篇』富士書苑、1954年。5,滝口岩夫「戦争体験の真実」第三書館・1994年。6,杉浦正明「海ゆかばー南海に散った若き海軍軍医の戦陣日記」元就出版社・2000年。7,波多野克己「ラバウル洞窟病院」金剛出版・1971年。
(2021年10月11日まとめ)