見出し画像

慰安婦 戦記1000冊の証言18 官憲の加担

「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、
 更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」(慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 平成5年8月4日)

「河野談話」の一節だが、従軍慰安婦の教科書記述もあって、自民党「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」は憤懣の声を上げる。平成9年のこと。
 強制連行はないし、「官憲等の加担」などあるはずもない、というのだ。もちろん、朝鮮人慰安婦を頭に置いているわけだ。
 同会は会合に「河野談話」作成時の事務当局幹部を講師として招き、詰問するが……。

お手伝いの証拠あり

 官房副長官だった石原信雄は、「加担」について、こう解説する。
「実は(元朝鮮人慰安婦)16人の方々のヒアリングにあたりまして、官憲が立ち会ったとかという……。
 これはそのヒアリングの中に出てくるところなんですが、それは朝鮮総督府の巡査が立ち会って、サーベルをガチャガチャしながら『受けなさい』と言ったというような場面が出てくるんですけれども、そういうようなことを総合して、(官憲の加担等という)あのような表現になったわけです」
 当時、外務省条約局法規課長だった鶴岡公二外務省北米二課長も懸命に説明する。
「(官憲等の加担について)それも事例として確かにあるんですよ。例えば、村役場みたいなところへいって、『軍からの要請もあるので手伝ってくれ』と言うわけです。
 そうするとあの辺にいるよとか、そういう形でのお手伝いはしているんですよ」
「『甘言、強圧による云々』というのは、まさに主体は業者が甘言・強圧によっているのであって、そういう甘言なり強圧をする場を設定しているのは、現場の官吏なんですよ」
「私も全部調べて、強制を示す証拠はなかったと確信しているんですよ。だけど全体のお膳立てをするところのお手伝いはしているという証拠はあります」(1)

「加担」とは「力を貸すこと。助けてやること」。慰安婦募集への加担の証言の前に、ほかの国策等に関して、朝鮮当局の加担ぶりを見てみよう。

 昭和3年、朝鮮・京城の土木会社に入社し、以来18年間、朝鮮各地の土木工事にたずさわった会社員の証言。
 昭和15年以降のことか、「このころになると、日本人で若くて優秀な人はほとんどが兵隊にとられて、残っているのは私のように怪我をした者や年寄りばかりとなった。
 しかし、こんどは総督府のほうで作業員を斡旋してくれるようになったので、私のところで必要な、二、三百人ほどの人員は、常時、確保されるようになった。
 あらかじめ役所と『いつからいつまで、何名が必要か』を打ち合わせておくと、労務関係は、ある程度強制的に、道庁から『どこの面(村)はどこそこの工事に何百名出すように』という指示が出るようになったのである。
 朝鮮人はまだ徴兵になっていなかったので、志願した人以外は若者も残っていた」(2)

 作業員は「ある程度強制的に」指示が出て、確保できた。

強制的に応募

 昭和13年から陸軍が開始した朝鮮人の志願兵制度はどうだったのか。
「特高月報」(昭和16年12月分)の「志願兵制度に対する朝鮮人の動向」の項中、「各方面の反響」の一節を読んでみる。

「滋賀県 雇人 林××」
「私が帰朝中、村でも30人ばかりの志願兵応募者の割当を受けているが、それだけの人数が如何にしても出来ないし、
 それでは村の名誉にもかかわるから、お前は35歳以上で不合格になることは判っているが、名前だけ是非貸してくれと頼まれたので貸したが、
 その後、街頭へ出てみると、なるほど募集に苦心しているような宣伝ビラが沢山張られているのを見受けた」
「朝鮮人将校某」
「現在応募の動機は、ほとんど警察の強制的募集によるもので、在営中内地の見学旅行、除隊後半島における革新的中堅幹部として青年の指導者たる地位を得られる等の好条件に釣られ、功利的に応募したような実情」
「また、総督府は必要数だけは容易に得られるのであるが、各道庁に責任数を割当ており、後に之を講評するので、警察は勢い強制的に募集するようにな(る)」
「内地人国民学校教員」
「新聞等では志願兵が殺到しているように書いているが、実際は警察やその他で強制的に応募している実情」(3)

 志願兵集めも「警察やその他で強制的に応募」らしい。
 昭和13年、日本内地の学校から朝鮮・江原道へ出向した小学教師の証言。
 4年後の昭和17年6月、「東草市の永朗国民学校の校長となった。衰陽郡14校中の最も大きい学校、28歳のいちばん若い校長、先生がたはよく協力してくれた」
「校長になっていちばんいやなことは、戦局が不利になるにつれて、青年を鉱山や内地に動員することや、志願兵に駆り立てることを、警察の駐在所首席と、面長(町村長)と校長の3者に責任をもたせたことである。
 いやがる者を無理強いするほどつらいことはない」(4)

朝鮮総督府に依頼

 慰安婦集めは……。
 たとえば、昭和16年8月、満州での「関東軍特別演習」の時、日本軍は約70万人を動員した。当然、その数に見合う慰安婦部隊が必要とされる。
 慰安婦部隊の動員担当が関東軍後方担当参謀少佐だった。「必要慰安婦の数は2万人」の計算結果が出る。その参謀の証言。
 慰安婦集めのため、「はっきり憶えていないが、朝鮮総督府総務局に行き依頼したように思います。それ以後のことは知りません。軍としてはというより、私は、それ以上は関知しないことにしていたのです」
 必要数は示したというが、総督府はどのような手立てで慰安婦集めをしたのか。「朝鮮総督府では各道に依頼し、各道は各郡へ、各郡は各面にと流していったのではないですか」。
 その結果、2万人の必要数に対し、「実際に集まったのは8000人ぐらいだったのです」。
 もっと少なく、3000人だったという証言もあるが、「集めた慰安婦を各部隊に配属したところ、中には〝そんなものは帝国陸軍にはいらない〟と断る師団長が出たのです。
 ところが、2か月とたたぬうち、〝やはり配属してくれ〟と泣きついて来たのです。実戦の経験のない師団長だったと思います」(5)

娘を差し出せ

 この時、集められた慰安婦の一人か。昭和18年、満州・平陽鎮で、陸軍一等兵が、こんな慰安婦と出会った。
「慰安所の女たちは、すべて半島の出身者だが、飢えたる兵士どもが、群れをなして押し掛け、外出日の慰安所は、ごった返しである」
「わたしが馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオとよんでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日とつぜん村長がやってきて、『軍の命令だ。お国の御奉公に、娘を差し出せ』という。
 御奉公の意味がすぐにわかったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号をくり返したが、村長は耳を借さない。
 この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘が5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。
 村長の背後では、佩刀を吊った日本人の巡査が、肩をそびやかせている。5名の娘が、石コロのようにトラックへ乗せられ、村境の土橋を渡ったのが、故郷との別れであった」(6)

《引用資料》1,日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会「歴史教科書への疑問-若手国会議員による歴史教科書問題の総括」日本の前途と歴史教科書を考える若手議員の会・1997年。2,松尾茂「私が朝鮮半島でしたこと」草思社・2002年。3,明石博隆・松浦総三「昭和特高弾圧史7・朝鮮人にたいする弾圧(中)』」太平出版社・1975年。4,牛見信夫他「五人の教師」ひまわり出版・1979年。5、千田夏光「従軍慰安婦ー〝声なき女〟8万人の告発」双葉社・1973年。6,真鍋元之「ある日、赤紙が来てー応召兵の見た帝国陸軍の最後」光人社・1981年。
(2021年10月9日まとめ)


いいなと思ったら応援しよう!