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慰安婦 戦記1000冊の証言6 慰安部長

 陸軍のビルマ方面軍司令部の「ラングーン付近の、いわゆるP屋(慰安所)には、最高級の翠香園にはじまって、竹の家、南国会館、黒金荘等、約20軒もあり、陸海軍、将校下士官兵、人種ごとの差別もあり、さながら大東亜女性展の感があった。
 総元締めは慰安部長と呼ばれた准尉だ。彼は慰安婦の人事、服務、衛生検査まで指示する立場」だった(1)。
 ラングーンからの証言では、「慰安部長」もいたというのだ。

 ビルマのパコックのようすは、第33師団歩兵第214連隊乗馬小隊員の証言。
 昭和18年8月1日付で軍曹となり、連隊本部勤務、経理委員助手被服係となる。パコックの警備が安全になると慰安婦が追いかけるようにやってきた。
「その多くは師団司令部から連隊にと、それぞれお抱えのピーヤー(慰安婦部隊)があったようで、このピーヤーも中支からついてきたものであった」
「これといって行くところもない野戦で、外出した多くの兵隊はこのピーヤーに集中するのであった。
 ピーヤーはテッケ(椰子の葉)で屋根を葺いたあばら家に、アンペラで仕切った4・5畳の小部屋がある2棟ほどで、10人足らずの婦人がここで商売するわけである」
「この女性たちは日本人をはじめ韓国人、中国人などいて、口を開けば、『兵隊さんだけがお国のためではないのよ、私たちもお国のためよ』と、
 いってみればそのとおりで、いつ敵襲をうけるかわからないような、この第一線近くまできて、体を張ってのご奉公である」
「この慰安婦の中に現地ビルマ婦人も、軍の指定を受けて営業していた」(2)

 ビルマ婦人の提供を拒否された部隊もあった。昭和17年半ば、第11防疫給水部隊員の証言。
 タウンジーの宿舎の丘の上には土侯の邸があった。
「某参謀が土侯を訪ねて『日本軍慰問のため女性を集めてくれ』と申し入れたところ、
 土侯は『われわれはマンダレーの蓮の花が咲くころに、神兵が来て救われると聞いている。神兵である日本軍が女性を欲しいというのか?』と反問し、某参謀を唖然とせしめたという話も聞いた」(3)

海軍用あるけど陸軍なし

 マレーのペナンで、海軍の慰安所設営は素早かった。陸軍報道班員の証言。
 昭和16年12月、「ペナンに入った前日、海軍部隊が入ってきて、海軍地帯を手に入れていた。海岸沿いのホテルをいくつか接収し、学校を手に入れていた。
 翌日には若い女の子、主として英語のできる中国娘を連れてきて慰安所を開いていた」
「海岸べりの上海飯店へ行く。海軍将校用の慰安所だが、酒を飲んだり、ダンスができるようにもなっている」(4)

 ビルマ派遣第55師団衛生隊の陸軍軍医少尉は、赴任途中のマレー・ペナンで、慰安所設営に従事した。昭和18年4月のことだが、ペナンにある7軒の慰安所は、すべて海軍専用だったからだ。

「ペナンでの駐留が長引きそうだ。そうなると、陸軍専用の慰安所を作ってやらないと、下士官、兵がかわいそうだし、問題を起こさないとも限らない」
「早速州政庁へ交渉に行ったら、政庁で女性を募集してもらえるよう話がついた。そして20名の予定で募集してもらったら、現地の若い女性50数名が応募してきた」

 これら女性の健康診断も行う。「婦人科の方は次の4段階に分類してもらった。
A、病変なく、見た目の立派
B、病変なく、見た目は普通
C、軽度の病変か、または瘢痕あり
D、病変あり、使用不可
 さて、検査の結果、婦人科の方で病気のない者、すなわちA、Bの者はわずかに15名だった」
「Cの者を再検査し、上、下の2段階に分けてもらい、上の者を合格として、やっと22名になったので、この22名を採用することにした」

サックは衛生材料でなく被服

「開設に先立ち、中尉と私は『サック』の受領に行かされた」「クアラルンプールまで受領に行く」
「クアラルンプールの軍医部に行きサックを請求したら『サックは衛生材料ではない。あれは軍隊では被服となっているので、貨物廠に行って受領せよ』と叱られてしまった」
「改めて貨物廠に行きサックを請求したら、ここでは簡単に2万個のサックを受領することができた」

「州政庁も占領下のためか、軍には非常に協力的だったので、何事も順調にいった」「開店後の経営者も政庁で適当な人を選び、建物も格好な既設家屋を世話してくれた」
「その家の屋号は『梅の家』と命名され、待望の陸軍専用の慰安所が誕生したのである」(5)

 ペナンの海軍に話を戻すと、俳優の森光子が海軍慰問団としてペナンを訪れたのは、「梅の家」が完成後の翌19年1月。
「5日には海軍の司令部があったペナン島へ向かいます」「新年慰労演芸会のあと、司令官と一緒にフランス料理のフルコースをご馳走になりました。
 テーブルクロスが真っ白、ナプキンも真っ白。青い空に赤茶けた土、灰色の兵隊さんばかり見てきたものですから、その純白がまぶしくてしかたありません。映画のなかでしか見たことのないような豪勢な洋食でした」(6)

 会場はどこだったのだろう。同じ19年夏ごろ、アンダマン島の海軍第12特別根拠地隊に赴任途中、ペナンに滞在した若手将校の証言。
「エスプレイ(エスは芸妓、いわゆる夜遊び)のほうがいそがしく、二日酔い回復のためや野戦に備えるため、昼間は水交社の自室でゆるく廻っている天井のファンを見あげて、ベッドに寝ているほうが多かった。
 ペナンには慰安所として『もも屋』『さくら屋』、『レス』(料亭)としては『つた屋』(別府)『藤屋』(新和歌浦)などがあった」
「大通りに出たら、すぐ『つた屋』だ。ブーゲンビリアの花が夜目にもわかる前庭をすぎると玄関で、レス(料亭)らしからぬ洋式建物のなかに入る。部屋は洋間に畳をしいた和洋折衷で、天井も高い」(7)

 昭和18年、近衛歩兵第5聯隊第1中隊が、タイ・チュンポンに駐屯した時の話である。
 中隊長が、少尉並びに出入商山田某を伴い、バンコクの軍司令部に申告と現況報告すると、新しい命令を受ける。
 1、第1中隊は「チュンポン」―「カオフォーチ」道沿いに中隊の兵舎を建て、兵力の一部を「カオフォーチ」に派遣して兵站業務に任ずべし。
 2、「チュンポン」に慰安所を開設すべし。
「第1項は予想された事だが、第2項には面喰う。少なくとも我々は『近衛』の誇りを持っている。殊に、中隊長は神宮皇学館出身の高邁な方である。
 しかし命令では仕方がない。出入商を帯同したのが幸いし、即日、従業員募集、翌日十数人の婦女が集まった。
 帰隊後、楼屋の買収、造作、運営の一切を業者にまかせたが、指導監督は中隊で引受けざるを得なかった」(8)

 昭和20年に入り、ラオスのタケクでは、各種部隊の駐屯で日本軍が1万人を越し、地区司令部が設置された。
 第7方面軍野戦貨物廠西貢支廠は、第38軍野戦貨物廠となり、タケク出張所は、第38軍野戦貨物廠タケク支廠と強化される。
 昭和20年4月10日付で同支廠建設隊材量主任で、慰安所担当者の証言。

「地区司令官からタケク出張所に対し、ピーヤ(慰安所)の開設命令が出る。駐留軍が1万を越すと、貨物廠は慰安所の開設をしなければならない任務がある。
 ハノイ支廠に連絡すると、ハノイから安南人の慰安婦十数名を御用商人が募集して連れて来た。バンガローの一軒をこれらの者の慰安所と定める。
 この慰安婦のうちの1名に、日本人商社員を恋人に持つ美人の安南人がいた。恋人がいるのに何故慰安婦になったのか、と聞くと、私を捨てて軍人になった(現地応召したらしい)ので、探すのには軍人相手の仕事であれば、何時か会えるからという」
「各部隊に対し、衛生サックの交付がはじまる。タケク出張所開設以来初めての交付である。
 日曜日、慰安所を巡回してみると、おどろいた。各慰安婦の部屋の前は10メートル以上の長い行列ができている」「夜再び巡回してみると、将校のみの利用者で、昼間のような繁昌はない。
 部屋の入口には名札が下っている。裏は赤く染めた中に氏名が書いてある。花子とか房子とか皆日本名を使っている。赤色の地に氏名が書いたのが下っているのは、性病の発病中の者である。
 軍医の検査が終わったばかりのようで、2名の赤い札が出ていた」(9)

「河野談話」どおり

 以上、各地での証言を聞いたが、「河野談話」を裏付けるものだった。
「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 平成5年8月4日」
「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」

《引用資料》1,二輪会「わだちの跡」私家版・1970年。2,長谷川正美「わがビルマ戦記」私家版・1987年。3、菊の防給編集委員会編『菊の防給―第11防疫給水部の歩み』私家版、1980年。4,寺崎浩「戦争の横顔ー陸軍報道班員記」太平出版社・1974年。5,笠置慧眼「ああ、策はやて隊」私家版・1990年。6、森光子「人生はロングラン」日本経済新聞出版社・2009年。7,小沢一彦「インド洋戦記」図書出版社・1979年。8、近衛歩兵第5聯隊史編集委員会「近衛歩兵第5聯隊史(上巻)」私家版・1990年。9、会沢蛭風「椰子と南十字星と学徒兵」私家版・1984年。
(2021年10月10日まとめ)

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