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慰安婦 戦記1000冊の証言13 済南への誘拐

「官憲による組織的な『強制連行』はなかったと断定できる。では実状はどうだったのか」
「当時の慰安婦たちから事情を聞きとった人たちの証言から推察するほかない。次に列挙したのは、これらの諸証言から私が信頼性が高いと判断してえらんだものである」

 このように前置きして、日本の近現代史を専門とする歴史学者の秦郁彦は、3人の日本軍人の証言を紹介している。

大陸慰問団変じて

 その一つは、中国・済南駐屯の第59師団に所属した伍長の証言である。
「1941年(昭和16年)のある日、国防婦人会による『大陸慰問団』という日本女性200人がやってきた」
 慰問品を届け、「カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが」「皇軍相手の売春婦にさせられた。
『目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ』が、彼女らのよくこぼすグチであった。
 将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた」(1)

「部隊の炊事手伝い」「事務員」というウソにだまされて、山東省の済南まで連れて来られ、慰安婦にされたというのである。「誘拐」の手口だ。
 厳密に言うと、この「日本女性」が、日本人か朝鮮人か迷うところだ。しかし、日本人女性として、話を進めたい。

 済南には、すでに昭和13年2月、慰安所が設置され、朝鮮人慰安婦がいた。

「希望者は午前10時より12時までと午後1時より6時の間、公用外出を許可さる。部隊より下士官1名の監視が出ることになり、命により自分が遊興所の監視として1日入口の張り番をする。
 女郎屋の張り番は後にも先にも、これが一生一回の経験だろう。先ずは砲隊長と軍医と自分で所内を見聞し、隊長、軍医は先に帰る。
 昼食も側車で運んでもらい、夕方は側車で迎えに来てもらう。なかなか女郎屋の監視も大したものだ。5時30分、異状なく兵舎に帰りて隊長に報告する」(2)

 朝鮮人慰安婦はどのようして集めたのだろうか。

 済南の慰安所利用者の一人、済南陸軍病院勤務の衛生兵の証言。

「私は何時も単独行動で、先ずピーヤに行ってから、そこ等の場末をふらつくのが常だった」
「土曜日の午後あたりに『明日○○日午後1時より、勤務に支障なき者の外出を許可する。依って希望者は別紙申込み書に記入申し込みすべし』とか何とか、まあそんな文句で、通達と申し込み用紙が回って来て、各人が申し込むのである」
「外出者は本館前に整列して、名前を確認した上、『突撃一番』というカーキ色のサックを2個ずつ渡された」
「私の体験した慰安婦は、韓国系娼婦(2円)は1回だけで、他は全部が中国娼家で、それも乙等(1円)の方を愛用していた」「中国ピーヤの甲等(2円)と、乙等との差はそれほどでもなかった」
「ただ甲等の方は、みんな同じような、瓜実顔の美少女ばかりで、並べて見比べて見ないと分からないほどであった。乙等の方は、3割位は他の顔立ちの者も混じっていて、年齢も甲等の方の16歳から18歳までというのと違って、もっと年上の者も混じっていた」
「朝鮮系娼家は、市内の方々に数軒が点在していたようであった。合計の人数は20人か、多くても30人位のものであったらしい」(3)

済南女性と同棲

 慰安婦は、朝鮮人、中国人女性のようだ。日本人慰安婦の話を探し出せないでいるが、こんな女性は、もしかしたら……。

「昭和20年9月ごろから、武装解除もなく」「炭鉱第一坑の警備をしていた」「20年12月ごろから時々八路軍の夜襲を受け、それがだんだん激しくなっていた」
「夜襲のない夜は、時々日本人反戦同盟員らしい者が隊長に会いに来ていたことが、兵隊の耳にも入って来た。
 当時隊長は、昔済南で知り合った女性を中隊に呼び、一緒に暮らしていた。いくら敗戦後とはいえ、帝国陸軍の将校の名が泣く行状である。なんとも癪にさわるやら羨ましいやらであった」(4)

 済南からかなり離れた駐屯地での部隊の裏話。「昔済南で知り合った女性」が、日本人だったのか。日本軍将校の場合、このような「戦場妻」を抱える者が多く見られた。

副官の自供書

 冒頭の「大陸慰問団」を受け入れた第59師団の高級副官が、敗戦後、中国の戦犯となり、「供述書」なるものを書いている。その中で、済南の「慰安婦部隊」にも触れている。

「1944年(昭和19年)4月上旬、第12軍の河南作戦出動後、軍副官より済南における軍後方施設中の軍人会館星倶楽部・料亭『桜』・偕行社料理部及軍酒保の監督業務を継承しました。
 星倶楽部は日本軍将兵専用の中国人妓館でありまして、其経営は済南中国妓館組合長に委託し、
 建物は日本軍が済南占領時、中国人より押収掠奪せるものを利用、内部を改造し、使用せしめ、
 従業員の食糧日用品等は、日本軍酒保より廉価にて供給又医療は日本軍において負担するという名目下に欺瞞し、
 廉価に日本軍将兵がいつ楽し得るの具に供したもので、妓女は約30名、1名1日平均約20名、多き日は30名の日本軍将兵を相手にせしめました。
 年齢17才乃至20才の若き中国女性の多くを侵略者の肉欲の対象たらしめ又其過労による疾病損耗を生せしむるの大罪悪を犯しました。病人は経営者たる組合長か自己組合妓館の妓女と交代せしめていたので、その数は判りませんでした」

「妓女約30名」といっても、「交代」もあるから、中国人慰安婦総計だと、かなりの人数になるのだろう。
「自供書」は続ける……。

「河南作戦進捗に伴い、1944年6月頃、第12軍より、妓女を前線に送られたき旨の依頼要求がありました。
 日本人料理組合は当時日本人妓女が著しく減少し、此の要求に応じ難き旨回答がありましたので、
 済南朝鮮人料理組合に依頼し、派遣後の妓女の補充に付便宜を与ふることを条件として承諾せしめ、朝鮮人妓女約30名を危険多き第一線に近い鄭州(約300キロ南西)に派遣(約3か月)するの罪悪を犯しました。
 僥倖にして此間妓女の損害は1名もありませんでした」(5)

「日本人妓女が著しく減少」したという。昭和16年の「大陸慰問団」200人はどこへ行ったのか。

「大陸慰問団」的な「誘拐」については、こんな従軍記者の証言もある。昭和15年5月ごろ、中国・湖北省の応山での話である。

「武漢作戦終了後、第三師団が応山に駐屯していたため、『特殊慰安所』がつくられた。家は十数軒、ここには珍しく日本の若い女がたくさんいた。
 昼間は兵隊のために客をとる。夜は将校のために酒の相手をする。夜更けになると将校と一しょに寝る。それが特殊慰安婦だった」
「こんな前線には、もったいないような若くて、程度のよい女たちだった。この程度の女たちなら、こんな前線へ来なくても、どこでも立派に働けると思って、そのうちの1人、丸顔の可愛い娘に聞いてみるとーー
『私は何も知らなかったのね。新宿の喫茶店にいたのだけれど、皇軍慰問に行かないかってすすめられたのよ。皇軍慰問がどういうことかも知らなかったし、話に聞いた上海へ行けるというので誘いに乗っちゃったの。
 支度金も貰ったし、上海まで大はしゃぎでやってきたら、前線行きだという。前線って戦争するところでしょう。そこで苦労している兵隊さんを慰問できるなんて素敵だわーー
 と思ってきてみたら、「とい(特殊慰安所の特慰)街」だったじゃないの。いまさら逃げて帰るわけにも行かないし、あきらめちゃったわーー』。
 そういって彼女は私にビールをついだ。そしてタモトから小さい四角なセルロイドの札をパラパラと3、4枚出して数えた。
『ちかごろは閑になっちゃってね。今日もこれっぽっちーー』。兵隊に抱かれるたびに1枚ずつ渡されるセルロイドの札、兵隊が前線に出動する直前などは15枚も20枚もあった日がつづいたといっていた」(6)

《引用資料》1,秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮社・1999年。2,六高会戦史編集委員会「近衛師団第六野戦高射砲隊史」私家版・1974年。3,鈴木博雄『体験的慰安婦の生態ー元衛生兵がみた140人の女たち』全貌社・1997年。4,新野博「黄塵茫々ー独立歩兵第194大隊想い出の記」私家版・1987年。5,新井俊男・藤原彰「侵略の証言」岩波書店・1999年。6,小俣行男「戦場と記者」冬樹社・1967年。
(2021年10月1日まとめ)

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