慰安婦 戦記1000冊の証言36 東寧馬鹿野郎
中国・満州のソ連との国境に面する東寧にも、当然のことながら、慰安所があった。
昭和17年、陸軍に入隊し、満州の部隊を転々とした陸軍兵長の東寧に関する証言。
昭和17年5月1日「入隊いらい初の普通外出」「町に出て片っ端から食い歩く。カツ丼、シュウマイ、大福……。この旺盛な食欲はわれながら悲しくなる。古年兵はピー屋(公営の女郎屋)に直行する、眼の色を変えて……。
軍人クラブで飲み、酔ってその1軒を覗く。お粗末な掘建て小屋で、筵敷きのうえにせんべい布団。これじゃ激情が沈んでしまう。外の兵隊の列が、実に哀れだ。2、3年兵ほど助平が多い。満州の排泄装置は関東軍の喜劇だ」
「兵隊に愛想を振りまく人種が、2組あった。1組は満人の親子乞食、もう1組は施設の女性たちであった」
「東寧の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりでなく日本女性も、将校用の飲食店で『営業』していたことはたしかだ」
「これらの朝鮮女性は『従軍看護婦募集』の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で『営業』するとは思ってもいなかったという。それが満州各地に送りこまれて、いわば兵隊たちの排泄処理の一道具に身を落とす運命になった」
「7、8月ごろだったと思う。昭和14、5年に『綴方教室』の1作品で文壇にデビューした豊田正子が、ある慰問団と一緒に部隊を訪れたことがあった」
「教育係将校や人事係准尉は、私の『地方』における前職を身上調書簿で知り、豊田正子を囲む座談会に出席し、司会者を補佐するよういい渡された。わたしは考えた。『朝鮮女性を排泄処理に使う野獣ごとき兵隊の前で、少女作家の豊田正子はいったい何を慰問するというのか?』」
「『豊田正子は施設の女性たちの姿を凝視できるか。消え失せろ!』。わたしは座談会の出席に応じなかった。もし出席していたら、豊田正子に噛みついていただろう」
「(昭和18年)1月2日 土曜 朝から内務班は酒盛りだ。初年兵にとって、朝から寝台に横になれるのは、1年中で正月だけだ」
「上等兵が、朝鮮ピーに惚れられ、金歯2本入れて貰った話は痛快」
「おれは東京の吉原、洲崎の悪所は体験済みだが、東寧の慰安婦はご免だ。あれじゃ人体でなく排泄装置の部分品みたいなものだ」(1)
「排泄装置」だったのか。豊田正子が知っていたとすれば、どんな感想を述べたろうか。「排泄装置」を自ら設置した日本軍、利用した兵士に疑問を抱いた日本人女性もいる。
関東軍経理部東寧派出所(東寧満州第39部隊)の女子軍属タイピストの証言。
「お休みには皆さんで街へ遊びに行っても、映画は内地で2年位前に見たものばかりでした」
「町へ行ってびっくりしたのは『軍慰安所』と書いた所の多いこと、中をのぞいて見ると、私達の遊ぶようなところは何もなく、男の人の遊ぶ所でした。
うすぐらい部屋のような所がせまい通路をはさんで両側にあるだけで、中から兵隊さんが出て来たかと思うと、朝鮮の女の人が厚化粧して出て来て、『また来てね、待っているわ』と手を振って見送っているのです。
兵隊さんは私達が見ているからきまり悪そうでした。
面白いので2、3軒見て廻りましたら、満人の慰安所もあり、こんな国境の果てまでこんな施設があるなんて、全く信じられませんでした。まして日曜日等、兵隊さんが行列しているのに呆れ果てました。
子供の頃、修身で肉弾三勇士、広瀬中佐と杉野兵曹長のお話を聞き、兵隊さんはお国のために命を捧げて働く偉い人と教わり、その人達と一緒に働けることを誇りに思っていたけれど、その夢が一瞬にして破れてしまいました。
部隊にも朝帰りする人や、尿を試験管に取り、病気がないかと調べている人がありました。
私はそれを見て腹立たしくなり、その人に『家族の人は遠い、寒い満州でお国のために働いている息子の武運長久をお祈りしているのよ、朝帰りなどして申し訳ないと思わないの』といいますと、返って来た言葉が『そう言うなよ、君はキツイこと言うな』でした」(2)
満鉄に入社、東寧で電話交換に従事した女性の証言。慰安所について、何も知らなかった、昭和20年7月のことだ。
「私は夜勤の帰途に生計所で買い物をした。11時頃にロータリーを通り」「今まで通ったことのない道に出る。迷子にならぬように周りを見ながら歩いていた。
バラック建ての家の前に兵隊さんが並んでいる。何があっているのかわからないまま前を通ると、中から白衣の朝鮮の女性が飛び出してきた。
その人を避けながら、側に坐っている女性を何気なく見た。するとその人は、『何を見るかあ』と奥に駆け込み、洗面器のようなものに水を入れてきて、『馬鹿野郎』と私に頭から水を掛けた。一瞬の出来事であった。
周りに立っている兵隊さんたちは、黙って見ている。私は羞恥心にかられ、その場から急いで走り帰った」
「あの場所をわかっていなかった私は、ただ怒りまくっていた」(3)
東寧の野戦重砲兵第九連隊第二大隊少尉は、慰安婦に助けられた経験もある。
「昭和19年2月8日に実施された徴兵令により、30数名の朝鮮半島の現役兵が初めて入隊してきた。
この半島出身兵の受入れに当って、軍の方針として軍機保持、防諜上の見地から、観測通信、砲手には就かせず、馭者のみとすることになり、私が所属する第二大隊本部指揮班にも3名が割り当てられた。
逃亡など事故防止のため温厚な古年兵を戦友に指名して、常時目が届くように配慮した」
「初年兵にとって手紙のくるのが一番の楽しみである。週番士官勤務では、兵への来信を検閲するのも仕事の一つ。彼ら半島兵にも故郷からよく手紙が届いた。
内容はハングル文字でかかれてある。ときどき半島出身の女性のいる慰安所に出向いて、持参した彼ら宛の手紙を説明してもらったが、いずれも内地からの手紙と同じく、軍務に精励して1日も早く一人前の軍人になるようにという意味で、むしろ内地からのものよりも真剣味があるように思えた」(4)
東寧で、慰安婦以外の女性にめぐりあった京都の自動車連隊兵士の証言がある。昭和17年ごろのようだ。
「部隊の食料買い出しの輸送を命じられ、日本の開拓民の集落に行ったことがあった。ある家に入っていくと、若い奥さんがいて、『兵隊さん、私を町に連れ出して』と泣いてせがまれた。見ると、彼女の夫は恐ろしく年の離れた老人だった。
どうしたの、と聞くと、大陸の花嫁の募集に、お国のためだと思って応じたら、くじ引きで夫を割り振られたのだという。生活も苦しそうだったし、哀れでならなかったが、いくら才覚には自信がある私でも、初年兵の身ではどうにもならなかった」(5)
《引用資料》1,長尾和郎「関東軍軍隊日記」経済往来社・1968年。2,井尻隆志「東寧―追憶の記」東寧会・1987年。3,小原定子「戦火の最終列車―満鉄電話交換手彷徨の記」海鳥社・1996年。4,野重九会連隊史編纂委員会「みんなで綴る野重九連隊史」野重九会事務局・1993年。5,三重フィールド研究会「聞書30人の戦争体験記」三重県良書出版会・1998年。
(2021年12月29日更新)