現代人に特有の「価値」とは?
2024年11月1日(奇しくもてつがく屋創立記念日)
愛媛県新居浜市あかがねミュージアムにて哲学カフェを行いました。
参加者は、13名。前回に引き続き参加してくださった方も多く、年齢層は比較的高めです。
主催者の方に頂いていたテーマは「価値」だけでしたが、「現代人特有の」という括りをつけることにしました。
というのも、前回のテーマ「美しさ」で対話したときには、どうしても「ひとそれぞれ」の域をでることが出来なかったように思ったからです。
しっかり考えたうえで、事実として「美しさは相対的でしかない」ということであれば、それも一つの答えだと思いますが、できれば、感性や意見を交換し合う会にするのではなく、少しでも哲学的であるために「問い合う」ということ、そして、新しい疑問に出会う体験をもっとしていただきたい!
もちろん、お互いにお話し合う朝カフェのようなものもとても素敵なのですが、哲学カフェの講師として呼ばれているので、哲学カフェらしさを皆さんに体験していただきたかったのです。
そういうわけで、今回は、もう少しテーマを絞らせていただき「現代人特有の価値」とさせていただきました。
私たちは、現代人でしかありませんから、いわば「今の自分達にとって当たり前になってしまっている価値観」を洗い出すような作業が生じるのが狙いです。自分たちにとって自明になってしまっている考え方を問い直すことこそ、哲学の醍醐味!
対話を始めると、早速、テーマの解釈を巡って、参加者から疑問をいただきました。
現代人に特有とは?
「『現代人に特有』とはどういう意味なのか?」という疑問を投げかけられた方がいました。そして「『現代人』という言葉によって高齢者を排除してしまうことになるのではないか」というのです。
なぜこのように感じられたのか、詳しく伺うべきでしたが、この感覚は、非常に面白いものだと思いました。例えば「現代の若者は…」という言葉はあっても「現代の年寄は…」という言葉はあるでしょうか。
「現代」という言葉と「若者」が結びつくイメージがあるのかもしれません。
もしかすると、講師であったのが杉原あやのという若者であったために、講師が「現代人の」といったとき、杉原が杉原の年齢層を基準に「現代」を見ていると思われたのかも知れません。
杉原の年代ですと、スマホは当たり前で、SNSもバリバリ活用している。そういう杉原(若者)にとっての「現代」と、高齢層の参加者にとっての「現代」は違うもののはずではないか…。そういう違和感があったのかもしれません。
この違和感、大事です!
現代人とは誰のことなのか?
「現代人とは、現代を生きている全員です。」と説明したものの、他の参加者からも「現代人といっても、どの年齢層のことなのか?」という質問が続きました。
この「現代人」の定義自体が議論の中心になっても面白かったと思います。
「現代人」と言われても、ピンとこない参加者がいたということ。
この「ピンとこないさま」こそ、突き詰めてみると面白い!
一体、現代人とは何なのか?
誰のことなのか?
どうなれば、現代人だと言えるのか?
いくつも問いが思い浮かびます!!
これらに関する参加者からの話題として次のようなものがありました。
「現代人特有といったときに、現代に生きている人の中間層のことなのだろうけれど、そうすると、後期高齢者は除外されてしまう。現代人の価値(現代で生きているすべての人の価値)であれば、現代に生きる個々人全ての人が持つ個人的な価値も含まれるが、特有といった時に、たとえば、現代に特有のものとしてネットやSNSを前提とした価値観などがあるだろうけれど、これでは、SNSなどを使っていない後期高齢者はこのテーマから除外されてしまう。」
この指摘は、ある意味では正しいようにも思います。その時代に特有のある価値観があるからと言って、その時代に生きているすべての人が例外なくその価値観を持っているとは言えないかもしれません。当てはまらない個々人がでてくるというのも想像できます。
しかし、この指摘は、ある事柄の傾向を捉えたり、物事をグループ化して考える際によく生じます。たとえば、仮に「こどもは大人と比べて無邪気だ」というとします。すると、こどものなかには無邪気ではない子もいるはずだから、そういうこどもは、「こども」から除外されてしまうということも言えるでしょう。
次のような意見もありました。
特有というとその時代に平均的な価値についてだと思うけれど、世界には年齢も性別も国も様々あるのに、平均的な価値を捉えることができるのだろうか。
「すべての人がそれぞれに多様な価値をもっているのだから『現代人に特有の価値』という統一したひとつのものとして語ることなどできるのか?」という問いは議論できそうです。
また、その時代に特有の価値があったとしても、それを持っていない個人もいます。一般的な価値と個人が持つ価値がズレるときに、例えば「生きづらさ」というワードがでてくるかもしれません。
ひとりのひとのなかでも価値観が変わる
生きている過程において、価値観が変わるという意見もありました。具体的には、仕事をしていたときと退職後では、価値観が大きく変わったというものです。
ひとりの人のうちでも価値観が変化していく、ということを考えると、ますます「現代人に特有の価値」などと語ることができるのか、そもそものテーマ設定が怪しくなってきましたね。
テーマはたたき台ですから、考えることで、テーマ設定自体が吟味されるのは大いに歓迎です。
人の価値
「人を羨ましむ」ということと「人の価値」についての発言もありました。
あの人はものすごく成功していて羨ましいとか、貧困で生活保護を受けている人は、あんまりたいしたことないんだろうな、と思うことは、その成功している人が、あたかも価値の高い人であると言っているかのようであり、生活保護を受けている人の価値を低く捉えているのかもしれない。
この発言があったときには、流されてしまったように思うのですが、振り返ると、決してテーマからそれていたわけではないように思います。
「人の価値」とは、差別に繋がる可能性のあるヒヤヒヤする話題ではありますが、私たちが普段生活をする中で、暗黙のうちにあるものを、しっかり問い直すという意味で、大事な内容だとも思いました。
実際に、自分が生きている意味を模索する人は、もしかすると自分の価値について悩んでいるかもしれませんし、誰でも良いのではなく誰かでなければならないとき(面接など?)は、何らかの判断基準で人を量っているでしょう。
そうした、求められる人間像や羨ましがられる人間像について「現代に特有」なものを考えてみることができたかも知れません。
老後の生活のお金の心配
ぱっと展開があり、「お金のことは価値のひとつでは!」
きっと千年前もお金は大事だっただろうけれど、老後の生活のお金の心配をするのは、現代の独特のものじゃないか。
その場にいた若い参加者も、老後の心配をしたり、すでに具体的な対策に動かれているようでした。
私もこどものころから、テレビの話題は「介護問題」「年金問題」「認知症」「老老介護」「5080問題」「団塊の世代」などのワードが頻繁にでてきて、老年を意識せざるを得ない話題が多かったように思います。
老後の生活のお金は、現代に特有の価値と言えそうでしょうか。
社会情勢に関する発言もありました。
「先々のお金の不安があって、20年後、自分がこどもを大学に通わせられるだけの所得があるかと考えていると、なかなか結婚しようと思わない。こうしたことも少子化に関係しているのでは?」
「個人で備えるか、皆で備えるか…。老後2000万円を自分で貯めなきゃならないという論調がでてきた。それまでの時代では、若いうちに周りに良くしておけば自分が弱った時に周りが助けてくれるという感覚が強かったのに、それが変わってきているのでは?」
お金の価値と現代に生きる私たちの関係は、過去の人々とどう違うのか?
もし、何かが違うとしたら、なぜ違うのか?
もっと深く話せる興味深い内容です。
女性/男性の自立
結婚して専業主婦をしてきた女性の参加者からは、女性の離婚とお金の関係についてお話されました。
結婚期間中に離婚したいと思うことがあっても、専業主婦では、蓄えがなく、離婚することが難しいというもの。
離婚率があがっていること、女性の自立した生活の観点からも、現代人の特有さと言えるでしょうか?
また、年配の女性の参加者の方で、ご主人に「自分が死んだ後も生活できるように自立してね」と話しているという方がいました。
女性が先立って男性だけが残されても生活できるように気にすることも、現代に特有でしょうか?
すでに老後のお金の心配のところで記した内容ですが、「皆でなんとかするということから、自力でなんとかするという風潮に変わってきた」という内容とも関連するかも知れません。
「自立」についても、どうでしょうか。
自立した人のほうが良いとされる風潮もあるでしょうか?
でも、そのとき「自立」とは何を指しているのか。そして、それは本当に良いことなのか。
女性の地位は低いと思われてる?
まだまだ、女性の地位が低いということを指摘される男性の参加者もいました。
「人は格差をつけたがる。人間として根本的にみれば格差はなくなる。」
この話題だけでも、何時間でも使ってみんなで深く考えられる内容だと思います。
たとえば、普段見聞きする「格差社会」という言葉は、ネガティブな印象を含んでいる気がしますし、暗黙のうちに格差がない方が良いに決まっていると思いがちですが、ここは哲学カフェらしく「本当にどんな場合においても格差はない方が良いのか?」と再吟味するのも良さそうです。
価値観はどうして変わるのか?
「働いていた頃と退職してからでは、価値観が変わってきた」という参加者の意見を元に、次のような疑問を持つ方もいました。
そもそも、どうして価値観は変わるのだろうか?
時代によっての価値観はどうして生まれるのか?
そして本当に変化は生まれているのか?
価値観が大きく変わる体験をすべき?
参加者の方々は、価値観が変化したエピソードをお話になるなかで「自然に変わっていく」という発言がほとんどだったに思います。
それでも、ふと気になったのは「自然に変わったのか、自分で変えたのかは、ちょっと、よくわからない。」という言葉です。
流れるように身を任せるまま、気がついたら変わっていたのか。それとも、私が自ら変化したのか。両者は、少し違うような気がします。じゃあ、何がどう違うのでしょうか。
また、大事にしている価値観、変わらないでいたい価値観についてお話される方もいました。
価値観は、自然に変わり続けていくばかりでしょうか?それとも、どうやっても変わらないままの価値観もあるのでしょうか?
私たちは、本当に価値観を変えたいと思っているのでしょうか?
もしそうだとしたら、それはなぜ?
そしてどんな時に変えたいと思うのでしょう?
個人の中で、時代の中で、ずっと変わらない価値観はあるでしょうか。
価値観が変わるというのは、必ず良いことでしょうか?
良いことであれば、積極的に価値観を変える体験をするべきでしょうか?
たとえば、戦場に身を置けば、価値観が大きく変わる体験をするかもしれません。では、戦場に行くべきでしょうか?
変えてはならない価値観があるでしょうか?
価値観が変わるとは、どういうことなのでしょうか。
新しいものを取り入れる
「変わったらいかんところは、変わりたくないのは分かる。ただ、新しいものとの出会いは求めないといけないと思う。一人で旅行に行くとか。」
新しいものを取り入れざるを得ない場合もあるかもしれません。その場合は、自然と変わるのか、ある程度強制されているのか。「時代の波に飲み込まれる」という表現もありますが、その場合は、自ら望んでというよりも、抗いがたい形で変えられてしまうということがあるかも知れません。
続いて、次にこんな意見がありました。
「色んな人や色んなものに出会っていくことで自分の許容能力を広くしていくことができる。認めるとか認めないとか、その前にまずそういう存在があることを知る。極力広く人の価値観を知って、自分を太らせていく。共感できなくてもいいけど包容力を広げていく。しかし、人の価値観を否定してはいけない。」
価値観を広げることで、まずは「知る」こと、それが許容能力につながるけれども、共感できることとは違うというのが面白いですね。
「共感できなくても、許容できるの」としたら、具体的にどういうことなのか、例えば「共感せずに他者に寄り添えるか?」など、もっと話してみると面白そうです。
「共感」と「許容」の違いについても、もっと話せそうですね。
どんな人のどんな価値観も全て否定されるべきではないのかどうか、また、否定せずに異論を唱えることはできるか、なども考えてみることができそうです。
問出しの時に「皆互いが認め合う」と書かれた方がいました。そうなったら良いのに、という意味で書かれたそうです。
異なる価値観の人々と共に生きていくことを理想とするとしたら、この話題は、とても大切な内容を含んでいると思います。
おわりに
その他、気なる内容やキーワードがたくさん出てきましたが、ひとまずこのあたりでレポートを切り上げます。
次回は、12月6日あかがねミュージアムにて第三回目の最終回となります。
哲学カフェの場は、辛抱強く、回数を重ねて育てるものです。まずは慣れて安心して発言することがスタートライン。「問うこと」自体が思索の大切なステップですが、この「問うこと」が、慣れないうちは難しいのです。回数を重ねながら、問いかけ合い、共に考えるコミュニティをつくることは可能です。もし、哲学カフェの場を育てたいという方がいらしたら、お気軽にお声がけください。