勉強は役に立つのが遅すぎる
おはようございます。テツガクヤの運営を手伝っています、松井康太朗です。昨日、10代不思議の部屋で話したことをもとに僕が考えたことを、記憶の確かな今のうちに残してい置こうと思います。
昨日は人数が少なかったため、テーマを決めた対話というよりは雑談のような話のなかから、不思議な点、疑問を見つけていくような時間でした。
学校の話などをしていく中で、勉強の話もしました。
そこで考えたことの一つが、タイトルにもしている、『勉強は役に立つのが遅すぎる』です。
冷静に考えてみれば当たり前で、当たり前故に、解決策がなかなか難しいことだと思います。
まずは、この考えに至った経緯からお話しましょう。
10代のてつがくラボに来る子供、小学生から中学生ぐらいをイメージしてもらったとき、どのうようなイメージを抱くでしょうか。
難しそうで、賢そうなことをしているなというイメージを抱く人が多いと思います。実際は、そこまで難解なことをしているわけではないのですが、傍からはそう見えてもおかしくありません。
そして、このイメージから派生して、勉強熱心なんだろうな、なんていうイメージを持つ人もいると思います。
ですが、実際に来てくれた人に聞いてみたところ、やはり勉強は嫌らしいです。
「本当の自分がしたいことじゃない」
「やる気がない勉強は時間の無駄」
「勉強はめんどくさい」などなど。
それを聞いて、僕もそういえば勉強が嫌だと思っていたと懐かしい気持ちになりました。
僕の弟も勉強はめんどくさそうです。
となると、勉強が嫌というのは多くの人にとって、少なくとも小学生に共通の感情なのかもしれません。
小学生が多く苦手ならみんな元は小学生だったんだから多くの人が苦手意識を勉強に持っていたということになるはずです。
先に一つ、ここでは、話を中学生以下、あるいは小学生ぐらいまで限定させていただきます。
みなさん、勉強をしなさいと言われる時、理由はなんと言われてきましたか?
あるいは、お子さんなどに勉強しなさいと言う時、どういう理由で言って来ましたか?
多くの人が次のような理由だったのではないでしょうか。
”将来、役に立つから”
役に立つから、というのが理由としてしっかり機能するのかという話は一旦置いておいて。
みなさんはこれで納得しましたか? 僕は納得しようと思いました。
将来のために、今は、勉強しよう。
そして、ある日思いました。将来なんてどうでもいいから、今、楽しみたい。
なんでこんな両極端な結果になってしまったんでしょうね。
将来のために、というのは理屈として頭で分かっても、感情としてはなかなか理解しがたい所があると思います。
だって、将来っていつですか? ごく当たり前のことに、言った人も言われた人も目を逸らしています。
将来って大人になったらだよ、と思うかもしれませんが、大人っていつですか? 大人のいつですか? どんな大人には役立つのですか?
というか、そもそも。
大人になったらなんてのはあまりにも遠すぎる!!
10年しか生きてない人からしたら、10年後は自分の生きてきた時間そのものです。20年後なんて言ったら、今まで経験したこともない果てしない時間です。自分の生きてきた時間の二倍なんですから。
年を取れば時間が短く感じる? そんなの知らないんですよ。
実感したことがないものを納得しろというのはとても難しいです。
だって、一年後があんなに遠かったんですから。一週間後が待てない程遠くて、土日があんなにも長かった子ども時代を思い出して欲しいです。
勉強したことが役に立つのはいつですか?
10年後?
それってなんですか、歩いて日本一周させようとするような年月じゃないですか。
12000キロのマラソンですよ、それ。
さて、そんなわけで、僕は『勉強は役に立つのが遅すぎる』という結論に至りました。
テストとか、受験が、そういうのが成果として帰ってくるというか、報酬なんじゃないの?
という声もあるかも知れないですが、なんというか枠組みを外れていない。将来、人生に役立つ、大人になったら役立つっていう話だったのに、学校のなかで役に立っても……。
勉強という終わりの見えないマラソンを走ってきた人のことを尊敬しますが、そのマラソン自体を素晴らしいものだとは、学校教育に関してはあまり言えない気がします。
ぼろぼろになる体や心への配慮が感じられないじゃないですか。
勉強したいわけじゃないのにしなくちゃいけない、あの抑圧的な気分を多くの人が感じていて、それをしょうがない、そういうものだとして放置するのは正しい行いなのでしょうか。
勉強に意味がないと言っているわけではありません。
勉強をしている本人が勉強に意味を見いだせていないかもしれないと言っているんです。
この問題は様々な面で、少なからず悪影響を与えている可能性があります。
子どもたちのは学び実践するような、役に立つことを実感できるような機会が必要なのではないでしょうか。
もしかすると、それは学校だけでは無理なのかもしれません。足りないのかもしれません。
まだ、『勉強は役に立つのが遅すぎる』という考えが浮かんだだけで、解決策を見出したわけではないですが、無数の声の一つとして、ここに残していきます。