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こどもてつがく低学年 こころをぎゅっとするってどういうこと?

R6年度こどもてつがく低学年5月25日

初回の人見知りが溶けてしまったのか、2回目となった今回は、集まった瞬間からとても賑やかです。


参加者のひとりが駆け寄ってきて
「てつがくに使えると思って。私の大好きな本。持ってきた」
と話してくれました。

他の参加者も、みんなこの絵本に興味津々です。

ここは、小さなどうぶつたちが暮らす森。どんなことをお話ししているのかのぞいてみたら…… そこは、やさしさであふれていました。「かなしい きもちはね、ふたを しなくて いいんだよ。」「あなたは、よいこ。なにかを じょうずに できなくても。みんなと 同じように できなくても。」つらいとき、心細いとき、いつもあなたの心にそっと寄りそってくれる、心温まる絵と言葉がつまったメッセージ絵本です。


まずは、朗読を行いますが、みんな落ち着きません。
みんながあちこちで同時に話していて、進行の舵取りの難しさを感じます。

こどもたちは、とにかく静かになんてしていられません。それぞれがマイペースに、思いついたことや目についたことを口にします。そのたびに、全員の意識が別のところに向かってしまうよう。

でも、聞いていないように見えて、実は聞いているときもあります。

おとなのように、「今ちゃんと聞いていますよ」という振る舞いをしないので、一見すると聞いていないように見えるのです。別の方を向いていたり、身体がゴゾゴゾ動いていたり、手でなにか別のものを触っていたり。でも、聞いていないのかと言うと、そうでもないようです。

とにかく、絵本の朗読を続けます。みんなの集中力が散らばっていて、ざわざわしているようですが、朗読の最中でも、すかさず疑問は飛んできます。

ファシリテーターは、絵本の言葉を拾いながら、問いを投げかけ続けます。




この絵本は?


絵本の帯には「大切な人と読んで欲しい、沢山の愛を伝えられる。メッセージ絵本」とあります。

「メッセージに大切な愛がこもっている!」と参加者の子。

「愛を伝えられるって書いてるから、この本を読んだら優しい気持ちになれる?」とまた別の参加者の子。

こどもたちは「わかった!」と考えたことを言い始めます。

「大切な人と読んでほしいということは……一人だけが大切だったら……片方だけが大切だったら、向こうは大切じゃない。まだ向こうはなりかけ」

絵本の帯から、この本はなぜ読まれて、読む人はどういう人なのかについて考えたようです。

すでにお互いが大切で、お互いの愛情が十分に伝わり合っている間柄であったなら、この本は必要ないのではないかということでしょうか。一方が愛情を持っていて、相手に伝えたいと思っているからこそ読むということでしょうか。

帯にある「沢山の愛を伝えられる」という言葉の「伝える」には、ひとりだけではなくて、2者以上の存在が必要になりそうです。また、言葉の意味からは「向かっていく方向」があるようにもイメージされます。「伝わる」とは、どちらかから、どちらかへ、向かっていくイメージでしょうか。

そこで、伝える側と伝えられる側の関係性について、伝える側は相手を大切だと思っているけれど、伝えられる側は、まだ、伝えられる以前の状態だということかもしれません。

自分ひとりのためではなく「人とともに読んでほしい」あるいは「人に贈ってほしい」という本の帯について、こどもたちは、感じ取るものがあるようです。


発言は止まらない!


相変わらず、みんなゴソゴソしていて、ときどき、こどもたち同士で注意し合う様子もみられました。朗読が最後まで終わらなくても、こどもたちは絵本に関連する疑問を口にします。

「たくさん失敗することは特技なのかな?」
「なんで休むことが大切なの?」
「心をぎゅうするってどういうこと?」

「小さな一歩ってどんな一歩だろう?」「ちょっと大人になった感じ?」
「できることがひとつ増えたのかな?」「次の一歩とは違うのかな?」
「ちょっと違うんじゃない?」

「ずっと良い子なのに泣いているのはどうして?」
「いじわるをされたからかな?」
「良い子でもつらいときは泣いちゃうよ」

「悲しい気持ちはフタをしなくていいの?」
「そもそも気持ちにフタをするって何?」
「我慢すること?」

こころをぎゅうするってどういうこと?


ようやく朗読を終えたところですでに、こどもたちからたくさんの気になる疑問が出ていました。ファシリテーターも全部は覚えていられないほどです。

この日は、すでに出ていた問いの中から「心をぎゅうするってどういうこと?」について深く考えることにしました。

「(こころをぎゅうすると)いい気持ちは残して、悲しい気持ちだけ、なくなる」

「いい気持ちは残さんかったら、自分がもっとつらい気持ちになる。」

「冷たい心をあたためること!」

ぎゅうすることは、ある特定の気持ちが無くなったり、残ったりすることと関係があるとしたら、まるでこころは袋のようです。袋もぎゅうっと絞ると、中のものが出ていってしまいます。でも「いい気持ちは残って、嫌な気持ちだけなくなる」ということと「ぎゅうする」という行為とのの関係性はどうなっているのだろう?

「ぎゅうしたら落ち着く・・・?」
考えながら話す子もいます。

落ち着くのはどうしてなのでしょうか?
ファシリテーターの問いかけに、他の子が理由を考えてくれました。

「お母さんがぎゅうしたら、こどもが、心が、やさしくなる。」

「落ち着くことと、やさしくなることって一緒なの?」
と問いかけると、また先ほどとは別の子が発言します。

「落ちつていて、元の自分に戻って、優しくなる」

これはとても面白い意見です。
元の自分は「優しい自分」なんですね。ファシリテーターは、「性善説」を思い出しました。人間の本来の性質が善人であると考える説のことです。「元の自分」という言葉から、自分の「もともとのあり方」が定まったものとしてあるのか、もう少し聞いてみたくなりましたが、こどもたちの発言は一瞬たりとも止まりません。その後も「元の自分」について質問してゆくと、また別の方向へ。

「おかあさんがぎゅうしてくれたことで、怒るのも全部忘れて、落ち着く」

「怒るのも全部忘れるのね。そういう経験はある?」
具体的なエピーソードを子どもたちに問いかけてみます。

「ある!」
「ない!」
「おとこはないよ、ぜったい」

経験があると答えた子に、「そのとき(怒るのも全部忘れて落ち着く)は、元の自分に戻ることだとさっき言ってくれていたけど、それってどんな感じ?」と問いかけました。

「前の自分に戻る!」
「ちょっとだけ怒るのが前の自分」
「ぎゅうして、ちょっとずつ怒るのが消えていくとか」

急にポンと怒る気持ちが消えてしまうのではなくて、徐々に段階を踏むというのは、新しい視点です。

こころと温度

集中力が切れたところで、また別の話題に転換しました。

参加者の子が、ワークシートに記載してくれていた、言葉に注意を促してみました。

こころをぎゅうすることは、冷たい心をあたためることだと書いてくれていけれど、心は冷たくなったり温かくなったりするの?

「うん。そういう繰り返し」
「いっしょになっとる。もう、ごっちゃごちゃ」

「一週間冷たい、一週間温かいって意味?」と参加者の意見に別の参加者が質問をした所「そういうことじゃなくて。冷たいしあったかいっていう。混ざった感じ」と応答しました。

こどもたちひとりひとりが、言いっ放し、聞きっぱなしではなく、互いに応答し合うのはとても良い傾向です。低学年のこどもたちには、まだ少し難しい子もいますが、継続とともに、こうした相互に応答し合う瞬間がもっと増えていくと思います。

「心がつめたくて、ぎゅうっとしたらあたたかくなる?」心の温度に関する話題と「心をぎゅうする」の関連性についてもう一度確認するとこどもたちがうなずきます。引き続き、心が温かいとか、冷たいという表現のなかに、何が含まれているのか、それがどういうことなのか、もう少し言語化するように促しますが、難しそうです。

「寒いときに、ぎゅうするとあたたかくなるし、いじめられたときに、ぎゅうすると、忘れられる。」

何もなかったことにはならない?

すぐさま反論がありました。
「いじめられたりしたら、まだ残るんじゃない?」

いじめられたときに、ぎゅうされて、それを忘れられるわけではなく、何にか残るものもあるのではないかという指摘です。

「自分に、めちゃくちゃ嫌なことされたら……」
「ずっと残ると思う」

今まで、ほとんど発言してこなかった子が、語気を強めて急に話し始めました。
「バカとか言われたら。嫌な気持ちになったら。ずっと残る」

他の子が、この発言からまた話を続けます。

「たとえば、お兄ちゃんたちがいて。友達は、お兄ちゃんがいなくて。お兄ちゃんとかがいる人は、いじめを経験してるけど、お兄ちゃんとかがいない人は、経験してないからもっとつらい気持ちになる」

自分のリアルな経験に基づいた大切な意見です。「哲学対話」では、人ごとで頭の中だけにあることではなく、自分の経験に立ち返りながら考えるようにします。お兄ちゃんがいる人は経験しているというのは、どういうことでしょうか。お兄ちゃんにいじめられるということでしょうか。

別の子が「そういうこと!」と言います。

「喧嘩したときに、お兄ちゃん達が、口でなんか言ってくる」

話を戻して
「いじめられたり、意地悪されたりしたときに、ぎゅうっとされても全部なくなることはなくて、何かが残る?」
とファシリテーターが聞くと「嬉しい気持ちは残る」とのこと。

このときの嬉しい気持ちとは、今までに経験してきた嬉しかった記憶に近いようです。

では、ぎゅうされて、嬉しい気持ちもなくなってしまうことなんてあるえるのでしょうか?

「ある!めちゃくちゃつらいとき。何もかも嫌なとき」
「めちゃくちゃって、なにがめちゃくちゃなん?」
「たとえば暴力とか振られて嫌な気持ちになるとか……?」

「そういうときにぎゅうされると……」
とファシリテーターが言いかけると
「反対に嫌になるわ!」
と今までに出てない意見が出てきました。

「いきなり触んな〜」とつぶやきが聞こえてきます。

ぎゅうされて嫌なとき


ぎゅうされて嫌なときがあるかという問いかけに、みんなは話し始めます。

「なんでいきなり触るん? ていうとき」
「そういうことだ!」

ぎゅうされて嬉しいときと、ぎゅうされて嫌なときには何が違うのでしょう?

「ぎゅうされて嫌なときは、めっちゃ嫌なことが起こって。死にたいぐらいの嫌なときで。ぎゅうされていいときは、まだ全然いける」

嫌なことが起こっていてもその程度によるということでしょうか。

「おかあさんが、ぎゅうしてくれて、こどもが嫌な気持ちになって。けど、もう一回、おかあさんがぎゅうしたら、優しい気持ちになる」

ぎゅうする回数が多ければ、だんだん変わってくるということ?

「うん」
「いや、それはない。ぎゅうすんなっていうときは、ぎゅうしたら嫌だから、いっぱいしたら、いっぱいしただけストレスがたまる」

「ぎゅうされたらいいってわけではないのね。じゃあ、タイミングが大事ってこと?」
と聞くと、「ぎゅうすること」についてあまり肯定的な発言をしていなかった子が、次のように話してくれました。

「タイミングが悪くって、ぎゅうすんなってなって、もっと泣いて。それで、泣き止んだら、ぎゅうしたら、ちょっと、なおる」

すぐさま、この意見に共感を示す子もいます。他者の心を読み、タイミングがバッチリ合うのは難しそうですが、どうしたらいいのでしょう。

「けど、わかんなくても、こころがつらい気持ちのとき、顔の表現でわかる」
「身体の表現も!」
「あ、けど、つらいきもちだけど、我慢して、優しい気持ちをだそうとしてる?」

気持ちを隠したり、ごまかしたりすることがあるなら、他者とタイミングを合わせるのは、やはり、とても難しそうです。ぎゅうしてみて、暴れたらわかるのではないかという意見もありましたが、できれば、タイミングを誤りたくないものです。

話すこと

「でもさ、嫌なことでも、もし誰かに言われたら、嫌な気持ちにはなるけど。あとで、おかあさんに言ったら、そうだったんだねって言われるかも知れない」

これもまた大切な発言でした。
ぎゅうすることではなく「話すことや聞いてくれること」でも安心したり、落ち着くことはあるのでしょうか。

「ことばで理解できることもある!」
「ことばが泣いとる感じやったら、嫌な気持ちがあって。泣いてない普通の声だったら、普通」
「ぎゅうして、こころがあたたかくならないときは、言葉で理解する?」

ちなみに、この対話の間、「ぎゅうすること」が身体を使って相手を抱きしめることを意味しているのか、具体的なことはまだ誰も言及していません。ひょっとすると、相手を「理解すること」と「ぎゅうすること」は一緒なのでしょうか。これについて、子どもたちに聞いてみました。

「理解すること」と「ぎゅうすること」

「『理解すること』と『ぎゅうすること』って一緒なのかな?」
という問いかけに、みんなが一斉に「違う!」と言います。

「理解するってことは、もう一回、前のことを考えること」

「理解は、自分でどうやってやればいいんだろうってやることだけど……ぎゅうするということは、心をあたためることだから、まああたたまらないこともあるけど、だから、ぎゅうするのかもしれない」

子どもたちの意見を聞いていると、「ぎゅうすること」とちがって、「理解すること」には「考えること」が深く関わっているのかもしれません。


ことばでぎゅうする

ことばだけでぎゅうすることってできるのでしょうか。

「ううん。できない!」
「こころから、ぎゅうの気持ちを伝える?」

さて、ぎゅうすることが一体何なのか、もう少し核心に迫りたいところです。こころからぎゅうの気持ちを伝えると、身体を使わなくてもぎゅうすることはできるのでしょうか。

ひとりの参加者が、本の帯に書かれていたことを思い出したようです。
「さっき絵本の最初のところで『大切な人と読んで欲しい』って、『愛を伝える』って(書いてたと)いうことは、気持ちが伝わる……?」

おわりに


残念ながら時間が来てしまいました。
こどもたちの発言から、ファシリテーターも考えを巡らせていました。

兄弟という存在



こどもてつがくでは、兄弟姉妹がいる参加者から、ときどき、苛立ちや憤りを聞くことがあります。これは、ファシリテーター自身もこどもの頃を思い出すと、身につまされる話です。

小学生でも、自分の行いが自分の人間関係に降り掛かってくることをある程度体験しています。自分が友だちと遊んでもらえなくなったりするのはいやなので、友達には、こどもなりに気を使ったりします。親に対しては、怒られたくはないので、そのことを気にしてはいます。

けれども、弟となると、あまり気遣いをしなくても、どうせ弟のままで、毎日一緒にいるということになります。自分のほうが少し歳上なものだから、お友達にするような気遣いはなく、今思うとかなり理不尽な思いをさせた気がします。弟は、生まれてからずっとその環境にいるので、自分がどう理不尽な状況なのかを言語化して、親に伝えることはできません。今振り返ると、家にいるときの弟の苛立ちやストレスは、私よりも多かったように思います。

こどもてつがく低学年の兄弟が、こどもてつがく高学年のクラスにいる場合もあるので、高学年のクラスでも、いつか考えてみたいテーマだと思いました。

母親という存在

「ぎゅうすること」がテーマになるなかで、繰り返し発言にでてきた「おかあさん」という存在について考えさせられました。自分を抱きしめてくれる存在、そして、その象徴としての「母」かもしれません。母なる存在について、もっと考えたくなりました。


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