「ネットとリアルどう違う?」
ほろ酔い哲学対話
[ネットとリアルどう違う?]
2020年5月15日(金)開催
文:杉原あやの
6名の方とオンラインZoomを使って哲学対話を行いました。
テレワークやオンライン授業などが必要に迫られる形で盛んになってきました。オンライン化にあたり、色々な議論が起こっているようです。そこで今回のテーマは「ネットとリアルどう違う?」として、皆さんと一緒に考えてみたいと思いました。
参加された皆さんの意見をご紹介したいと思います。
・オンライン授業になるにあたって、実習などはどうしたらいいのか、また、新入生の初めての顔合わせはどうすればいいのか、教員の人達は話し合っているようだ。
・実際の授業では、みんな顔覆面をしたりして教室にいるわけではないのに、オンラインになると、顔を出すのに抵抗があるという人たちがいる。どうしてだろう?実は普段対面で会っている時もお互いの顔をしっかり見合っていないのかな?
・授業を受ける側としての意見として:実際の授業では寝ている人もいるのに、Zoomの方が質問の量が多いと思う。
・教員の意見として:自分が先生で教室に立っていると、生徒全員の顔は自分の方を向いているのでZoomの画面は、自分にとっては学校で授業をしている状態を思い起こす。親しみがある。
・サークル対話だとお互いがお互いを監視しているような視点にもなるので、参加者は手を抜けない。(質問の量が増えるということに関連して)
晒される/晒されない
オンライン授業では、質問の数が増えたり、居眠りをする学生がいなくなったという話題から、「晒されている」という言葉が出てきたのが印象的でした。
ファシリ杉原は、「晒す/晒されている」という言葉は、ネットの中でよく見聞きする用語のような印象を受けました。実際のところはどうなのでしょうか。
一方、オンラインでも、晒されない場が確保されているという点では学校の授業と似ているとのご意見がありました。リアルでは、例えば、教科書を盾にして、他事をしていたり、前に座っている人の影になる形で、実はいたずら書きをしているなんてことも想像できそうです。
オンラインでも晒されない場があるという意見を受けて、実は、ファシリ杉原は、司会進行中もずっと手元でノートにメモをとっていたのですが、その様子は一切画面に映っていないことに改めて気がつきました。自分の顔は映っているのですが、カメラの死角になる場所で実際何が起こっているのかは分からないという点では、オンラインでも晒されない場があると言えそうです。
雑談の有無
実際に物理的な位置を占めて互いに会っていると、隣同士になった人と雑談が生じたりすることが多いような気がします。仮に一緒に歩いていても、その道中、なかなか無言でいるわけにはいきません。
一方、オンラインでは雑談が生じにくいのではないかというお話がありました。
具体的には次のような意見がありました。
・雑談が必要とされるケースはリアルの方が多い。
・当たり障りのない話がリアルでは多い。オンラインでは、よりディープでコアな部分がはっきりと出てくる。
・雑談をするのが苦手。ある程度話題が決まっていないと何をどう話せばいいかわからない。雑談が苦手なのは、オンラインオフラインでも同じだけれど。
同じ空間に物理的に一緒に居合わせていて無言でいるのは気まずさがありますね。もしかしたら雑談をするのが苦手な方にとって、ネット上のやりとりの方が楽に感じられる側面があるかもしれません。
ネットとリアルで、相手に対する捉え方が異なるか?
捉え方、理解の仕方、認識の在り方、どのような表現が適切かわかりませんが、次のような意見がありました。
・私たちは実際に会った瞬間に、相手を見極めているのではないか。話し方、雰囲気、匂いなどから、相手との関係の取り方を決めようとしているのではないかな。オンラインだと、それはなかなかできない。ひょっとすると、相手の話し方やちょっとしたしぐさ、癖から相手を見極めようとする別の能力が発達してきて補われるようになるのかな?
実際に会っても分からないことがあるのではないかという問いに対しては次のような意見がありました。
・会った時はいい印象だったけれど、SNS上だと違った姿で現れていて、戸惑う事がある。
会った時には違和感なく会話をしていたのに、SNSでは、SNS特有のネット用語や口調などを使われていると、ギャップを感じることがあるかもしれません。最初に自分が思っていたような人とは違うのかもしれないと心配になることもあるような気がします。
SNSの使い方や繋がっている人達との関係性によっても違いが出てくるかもしれません。次のような意見もありました。
・オンライン上に知っている人がいるかいないかで態度が違う。自分の場合は、実際に合う人とZoomで会う人とそんなに差は感じなかった。
・ネット上では見せたいように自分をカスタマイズすることができるのではないか。しかし、それを言うならば、活字と実際のイメージの違いなどもありそうだ。
匿名性が高そうなTwitterなどに比べて、実名登録で使われる方が多いFacebookだと実際の知人が多く、その場合、違う現れ方をするのかもしれません。
匿名性が高いときと、自分が特定される時とでは、振る舞い方が変わってくるでしょうか。もしそうだとしたら、それは実際の生活の中でも共通して言えることがあるでしょうか。付き合う人によって振る舞いに変化があるということも考えられるのではないでしょうか。
私たちはどれだけ相手のことを捉えきれるのだろうかという問題に繋がっているような気もします。それは、ひょっとすると、リアルとオンライン両方に言えることかもしれません。
後半は、「オンライン対話でどう振る舞うべきか」という問いを立てて対話を進めることにしました。
後半の問いの提案者である参加者の方が、問いを立ててみたものの考えてみると、自分の好きなように振る舞えばいいのではないかと思った、とのご意見を早速頂きました。
レポートを書くにあたって、改めて考えてみると「ネット上で好きなように振る舞えばいい」という意見から、昨今ネットで起こっている様々な問題を考えてみる足がかりになったかもしれないと、今になって振り返っています。
限られた情報の中で?
この時、ハプニングが起きました。PCと回線の問題でファシリテーターが参加者を残し、突然退場してしまったのです。
参加者のお一人からご提案を受け回線を安定させるため、参加者全員に顔出ししないようにお願いしてみました。※実際にカメラ動画をOFFにすることで回線が安定するのかどうかは確かではありません。
全員の顔が画面から消え、お互いの表情は分からなくなり、音声だけのやりとりに変わりました。急な状況の変化によって、次のような意見が出てきました。
・今、言葉以外の情報しかなくなると、慎重に発言するようになった。匿名性が深まったのを実感する。聞こえているのかどうかさえ分からない。情報量が削られていくと、誤解を生む要素が増えていくように思う。
・受け手の推測の余地が広がる。それが誤解の生じうる要素なのかな。
・人はいろいろな情報を総合的に判断しているのかもしれない。例えば、皮肉だったのかどうかなどは、わかりにくいかもしれない。
どう振る舞えばいいか、ということから、どう誤解させないようにすればいいかという話も起こってきました。
情報を「補う」とは?
先ほどまでは相手の顔を見ることができていたけれど、声しか聞こえなくなり「相手の表情」という情報が欠落した状況になりました。次のような意見がさらに続きます。
・対面ではないとき、画像だけの時、テキストだけの時、録画だけの時、声だけの時。オンライン・オフラインという2項だけではなく無数の状況があると思う。
・どこかの情報を削られた時に、補える方法を見つけられたら楽しくなりそう。
・自分の祖母は目が見えないが、会った時に顔を触られる。色の情報も言葉で伝わっていたように思う。
・会っていたら喧嘩しないカップルが、電話だと喧嘩する。
・自分の受け取り方に癖のようなものがあるのではないか。人の表情が見えないと不安になるとか。自分が特別頼っている感覚があるのかもしれない。それぞれ情報の得方に癖があるのかも。
「総合的な認識」を助けるための情報が欠落したということを前提に対話が行われてきたように思います。しかし次のような意見がありました。
・目が見えないことを、触れたり言語のやりとりで「補う」という意見を聞いてから、考えてみたのだけれど「補う」という言葉は、何か在ることが前提とされていて、それが欠けている時に「補う」という言葉を使う気がする。
この対話のやりとりの中である部分の情報の欠如に対して「補う」という言葉は幾度も出てきました。補うという言葉の意味を考えてみると、何らかの欠如を埋めあわせるという意味ではないでしょうか。しかし、欠如する以前の全体というか・・在って当然とされるものとは一体なんだったのでしょうか。私たちは何が在って当然のものとして対話としてきたのでしょうか。その漠然としたものが一体なんだったのでしょうか。先に書いた「総合的な認識」という表現は、ファシリ杉原がこのレポートを書くにあたって当ててみた言葉ですが、この言葉が適切かどうかはわかりません。「補う」という言葉を用いる時に、漠然と念頭に置かれていたかもしれない「総合的な認識」など、そもそも存在するのかどうかを含めて考えてみる余地がありそうです。
最後に、参加者にご感想を伺う中で次のような意見を頂きました。
バーチャルでバスに乗ったようにして、バーチャルの中で観光地へ行くオンライン旅行サービスが展開されている。人と対話することも、集まることも、今はコロナの状況下にあるのでオンラインに代替されるのは仕方がないけれど、ずっとオンラインでのやりとりが当たり前になるのは、虚しい。
それはこの日の対話の中では出てこなかった大切な意見の一つだと思いました。哲学対話も、コロナの状況下で、オンラインで行うところが増えています。そこでテーマに上がってきたことは身体論でした。身体的な移動を伴わず、画面の中だけで人と対話し関係を築くことで、どんなメリットやデメリットがあるのかなども考えられ、身体の価値についても再吟味される機会となっているようです。
オンラインの中だけの関わりでは「虚しい」と感じさせるものがあるとしたら、それは一体何なのか。どの点から虚しさを感じるのか。まさに今回の「ネットとリアルどう違う?」を考えるのに良い意見の一つではないかと思います。
それから、別の参加者のお一人と後日お会いした時に、感想として伺ったお話の中で考えさせられたものがありました。
オンラインに慣れている方が参加者に多そうだったので、オンラインを否定するような文脈では発言しづらかったというのです。それというのも、オンラインに慣れていない方が「時代遅れだと思われる」のではないかと感じたということでした。
そのまま哲学対話の時に言っていただきたかった意見の一つです。本当にオンラインが進んでいて、オフラインは時代遅れのものなのか。オフラインでも最先端と思われることがあるかなど、考えてみることができたら面白いと思いました。
率直に感じていること、他の人に理解されるかどうかではなく、自分にとって実感されていることそのものを、何故そう感じられるのかと考えてみることもできます。ご自身では、意見として話すほどのことだと思われていなくても、他の参加者にも気づきを与える機会になることもあれば、思いがけず新しい論点を提供することもあります。哲学対話はそれだけ身近な事から始められると思うのです。自分の考えに気づく時間でもあります。ぜひ、言葉にする事から初めて欲しいと思います。