足跡
埼玉県住宅地にある、車一台がようやく通れるぐらいの道。
彼女が帰宅するにはこの道が一番早い。
斎藤さんの帰宅時間は、大体は日付が変わる頃であった。
彼女は夜道を歩く時でさえスマートフォンを手放さない。
SNS依存症で、常に画面を見ていないと落ち着かないのだ。
バズっている事柄にはいち早く反応をし、自身も何か見つけては投稿するのが常だった。
「雨じゃ何かあってもうまく写真撮れないんだよね……」
斎藤さんは独り言ちた。
この夜は雨が降っていた。
左手に傘、右手にスマホを握っている。
傘のバランスが取りにくいし、画面には雫が飛ぶ。
それでも習慣は変えられなかった。
ちらちらと足元を確認しつつ、SNSを覗く。
このあたりの道は凹凸が多く、あちらこちらに大きい水溜まりができるのだ。
しばらく歩いていると、進行方向に老人が見えた。
中腰状態で立ち止まっている。
傘もささず、足元も便所サンダル。服装はTシャツにズボンという軽装。
濡れることを全く考えていないようでもあった。
その老いた男は、何かを下に落としては拾っている。
目を凝らすと、水溜まりに植物を落としているということがわかった。
ひょろひょろとした根がいくつか伸びていて、今しがた抜いたような雑草。
それらを寄せ集めて、一掴みの束にしたものだった。
老人はまた雑草を落とした。
次は洗うように水溜まりの中で揺らす。
それを持ちあげて、落とす。
今度はすぐに拾いあげて落とした。
洗う。
拾う。
落とす。
拾う。
落とす。
拾う。
落とす。
拾う。
落とす。
洗う。
そもそも洗っているのだろうか。
老人の行動は一連として不可解だった。
拾っては落とし、落としては拾う。
稀にこの洗うような動作を挟んでは、繰り返している。
動作の規則性は、あるようでないのかもしれない。
強くなる雨の中、雑草が弄ばれる音が、いやに耳についた。
「これ……撮影したら、ちょっと話題になるかも……」
なぜか、老人の行動から目が離せなかった。
不気味さに心が震えるのを感じていたが、彼女の脳内はSNS一色だった。
斎藤さんは傘を首で抱え込むようにして、スマホを操作する。
カメラアプリに触れる。が、起動しない。
一瞬は起動しかけるのに、すぐにホーム画面に戻ってしまうのだ。
よくあるバグ。そう思った。
「 じゃ、じゃあ……」
水滴に邪魔されながら、文字を打ち込む。
『夜中に雑草洗ってる人がいる。なんで? 』
これをすぐにSNSに投稿した。
元々フォロワーが多い彼女。
すぐに反応がついた。
『なにそれ。どんな人なの?』
反応を返したいが、雨風が邪魔だった。
SNSは時間が勝負。旬を過ぎればただの呟きとなってしまう。
すぐにでも応えなくてはと、周りを見渡した。
変わらず雑草を弄ぶ老人の死角になるような場所に、民家の塀があった。
そこならば風はしのげそうだと、斎藤さんはそっと移動した。
『おじいさんが水溜まりで草洗ってるの。傘もさしてないし……なんか変じゃない?』
『気持ち悪いね』
『うん。すごく不気味……』
フォロワーの1人とこれだけやり取りしていると、横入りのように次々と反応が増えた。
『大丈夫?』『逃げたほうがいいよ』『通報した?』と声が掛けられ、投稿が盛り上がっていった。
斎藤さんの口角がほんのりと上がる。
もう一度撮影を試みようか。そんなことを考えた。
「へええ……そんな事言うんだあ……それ、そう使うんだあ……」
彼女の左耳。すぐ真横で声がした。
ねっとりとした、しわがれた声。
生暖かい息。カビのような匂い。
飛び退いて、横を見るが誰もいない。
まわりを見渡す。
もともと人通りの少ない道。誰もいなかった。
塀から顔を出すと、老人が消えていた。
更に強まる雨音。
産毛が毛羽立つような感覚に、左耳をおさえた。
肌寒さのせいではない震えが止まらなかった。
この夜を境に、斎藤さんの玄関前には水溜まり現れるようになる。
アパートのコンクリートの床に、滲むような水跡。
ちょうど濡れた人がそこに佇んでいたかのような大きさ。
戸を開けるたびに、咳き込みそうになるほどのカビの匂い。
しかも、いつも雑草のカスが散っている。
まるであの夜の老人が玄関前にいたようではないか。
そして、あの時の投稿は未だにアクセス数が増え続けている。
あの声の主はSNSの使い方を知ったのだろうか。
はたしてどのように紛れ込んでいるのだろうか。
斎藤さんは、雑草の老人の目撃情報がないかと毎日SNSを探っている。
まるで、取り憑かれたかのように。
不可解な出来事すべてが『足跡』のように刻まれ、彼女を蝕んでいるのだ。