教皇クレメンス7世のパトロネージュ
Patrocinio di Papa Clemente VII
クレメンス7世の治世時代は、ヨーロッパ全体がかつてない大混乱に見舞われた時代だったため、不運な教皇というべきでしょう。
その一方で、芸術のパトロンとしては、従兄のレオ10世と同じように、メディチ家の一員にふさわしい豊かな人文主義的教養と洗練された芸術的見識をそなえたルネサンス・パトロンでした。
クレメンス7世自身も優れた音楽家としても広く知られ、このため教皇と同じ「Clemente」という名前のある作曲家は、自分の作品にわざわざ「non Papa(教皇ならぬ)」と署名したと伝えられています。
クレメンス7世は、枢機卿時代から、レオ10世の片腕としてそのパトロネージュに深く関わり、また独自のパトロネージュを展開しました。
枢機卿時代には、彼の聖職禄のひとつであったナルボンヌ司教区の大聖堂のためにラッファエッロとセバスティアーノ・デル・ピオンボに、2つの大祭壇画(《キリストの変容》と《ラザロの蘇生》)を注文しました。
Trasfigurazione, Raffaello Sanzio e Giulio Romano, 1518-1520, Tempera grassa su tavola, 410×279 cm, Pinacoteca Vaticana, Città del Vaticano
Resurrezione di Lazzaro, Sebastiano del Piombo, 1516-1519, Olio su tela, 381×289 cm, National Gallery, Londra, Inghilterrae
ラッファエッロには、モンテ・マリオのヴィラ・マダマの設計も依頼しました。ヴィラ・マダマは、教皇レオ10世の意向で接客用の大別荘として企画され、内部はラッファエッロ工房によって装飾されましたが、ローマ劫掠の際に破壊されてしまいました。
レオ10世時代の宮廷生活を否定したハドリアヌス6世にかわって教皇に即位すると、クレメンス7世は、レオ10世の諸事業を継続して行いましたが、レオ10世が残した巨額の負債と資金不足のため、大規模なパトロネージュはできませんでした。ローマ劫掠と皇帝への賠償金が教皇庁の財政にさらに大きな打撃を与えたことはいうまでもありません。
クレメンス7世が特に晶員にした芸術家には、画家セバスティアーノ・デル・ピオンボ、金工家ベンヴェヌート・チェッリーニ、彫刻家バッチョ・バンディネッリ、そしてミケランジェロがいます。
忠実なお抱え画家セバスティアーノには、多くの宗教画や教皇自身の肖像画を注文し、その通称の由来する Piombatore (ピオンバトーレ、教皇室の教皇書簡に鉛の印章 piombo を捺印する役職)の職を与えています。
Ritratto di Clemente VII con la barba, Sebastiano del Piombo, 1528 circa, Olio su lavagna, 50×34 cm, Museo nazionale di Capodimonte, Napoli
チェッリーニは、教皇庁の造幣局で貨幣やメダル、印璽の作製にあたり、ローマ劫掠の際には、有名な 『自伝』で語っているように、サンタンジェロ城に教皇とともに篭城して、率先して砲撃に加わりました。
Doppio carlino di Clemente VII, Benvenuto Cellini
クレメンス7世が最も熱心に推進したのは、フィレンツェでのメディチ家顕彰のための事業でした。
1523年、クレメンス7世は、即位すると直ちに、レオ10世が委嘱し中断されていたサン・ロレンツォ聖堂のメディチ家礼拝堂と墓碑の仕事をミケランジェロに再開させました。
クレメンス7世は新しいメディチ墓碑の制作において、2人の「マニーフィコ」(叔父口レンツォと父ジュリアーノ)の墓碑よりも、2人の「公爵」(ヌムール公ジュリアーノとウルビーノ公口レンツォ)の墓碑を優先させました。それは公爵たちの死後、彼らの継承者となった2人の少年(アレッサンドロとイッポーリト)の立場を社会的に公認させる意図があったためと思われます。
墓碑の制作は、1527年にメディチがフィレンツェから再度追放され、ミケランジェロが共和政府側についたため3年間中断しますが、ミケランジェロを深く敬愛していたクレメンス7世はミケランジェロの反メディチ的行動を赦し、仕事を再開させました。
制作は急ピッチで進められ、クレメンス7世が死去するまでには、2体の「公爵」像と4体の「時」の寓意像がほぼ完成しました。
Tomba di Giuliano de' Medici duca di Nemours, Michelangelo Buonarroti, 1524-1534, Marmo, 650×470 cm
Tomba di Lorenzo de' Medici duca di Urbino, Michelangelo Buonarroti, 1524-1534, Marmo, 650×470 cm
しかし、新しくフィレンツェの支配者となったアレッサンドロ・デ・メディチを恐れていたミケランジェロは、墓碑全体の完成を見ないままローマに去りました。
クレメンスは最晩年の1533年9月、カテリーナ・デ・メディチの結婚式のためにマルセイユに向かう途中、サン・ミニアート・アル・テデスコでミケランジェロと会い、もうひとつの大きな仕事を依頼しました。システィーナ礼拝堂のための大壁画《最後の審判》です。
Giudizio universale, Michelangelo Buonarroti, 1536-1541, Affresco, 1370×1200 cm, Cappella Sistina, Musei Vaticani, Città del Vaticano
時代の激しい波に翻弄された「悲劇の教皇」クレメンス7世は、《最後の審判》を委嘱した1年後の1534年9月に56歳で死去しました。
クレメンス7世の墓廟は、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会(ローマ)にあります。レオ10世の霊廟の反対側にあり、アントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネによって設計されました。
Tomba di papa Clemente VII, 1542, Basilica di Santa Maria sopra Minerva, Roma
システィーナ礼拝堂/Cappella Sistina
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