承認欲求なんて忘れてしまえ
承認欲求と言う言葉が盛んに使われるようになったのは、いつ頃からだろうか。少なくとも20世紀にはほとんど耳目にのぼらなかったように記憶している。
言葉自体はあった。ご存じの通り、マズローの欲求五段階説である。
生存に不可欠な基礎的な要求から、文明社会で幸福感を得られるための高度な欲求まで、欲求(欲望)の種類を五段階に分け、ピラミッド状に積み上げたやつ。見れば、「ああこれか」と大だいたいの人が思い出すことと思う。
自己実現の欲求
承認欲求
所属と愛の欲求
安全欲求
生理的欲求
となっている。近代的な政府と資本主義が健全に機能している社会では、 生理的欲求と安全欲求は、基本的に満たされているはずである。
しかし問題は、近代と言う制度も資本主義と言うシステムも、人間同士の多様な関係を分解して、平等で均質な個人を生み出そうとする働きがあることだ。
そもそも中世までの社会では、人は生まれた時から地縁、血縁、そして職業的共同体の一部であったのであり、所属について悩むことも、実現すべき自己について考える必要もなかったのである。
自由恋愛も極めて例外的なものであって、人生における重大な選択や決定ではなかった。
社会的地位の上昇も多くの人々にとっては考えることさえできないことであり、その限度もたかのしれたものでしかなかった。
では、21世紀の現代においては?
そもそもの承認欲求の下部構造である、所属と愛の欲求、これを満たすことが容易ではない。
グローバルな社会とは、砂のような個人の寄せ集めであり、各人が十分なな経済的豊かさを確保するために忙殺される世界である。人々の所属する共同体は存在しないかごく希薄なものであり、特に都市生活者にとって、ここがホームだと言える空間はどれだけの確かさで存在しているだろうか。
自己実現も、現代においては満たすことの困難な欲求である。
後期(末期)資本主義社会においては豊かさの表象(パノプリ)はごく少数のセレブリティに独占されており、そこへ至るための門は殆ど開かれていない。
それをあきらめ、例えば小説を書いたり音楽を演奏したりして何者かになろうとしても、こちらの門はあまりに大きく開かれているがために、抜きんでることが極めて難しい。
現代、承認欲求の充足が求められるのは、このような困難のもとでのことなのである。
承認欲求とは、周囲の人から自分を価値のある存在として認められたいという欲求であるという。
そんなのどだい、無理筋ではないか。というのが本稿の主旨である。
関係の希薄な誰とでも交換可能な労働力の一人であり、特別何かを持っているわけでもなく、何かを成し遂げる力があるわけでもない、そういう平凡な私の一体何をどう承認してくれというのか。
承認欲求が満たされないのは私や私の努力の問題ではない。
そして、そもそも承認されること自体の問題でさえない。
マズロー言うところの精神的欲求のすべてが、現代資本主義社会では充足されえない。そういう構造自体の問題なのである。
しかし安心してほしい。先進国の様相を見てわかるとおり、この後期資本主義的状況も永続するわけではない。移民と難民とその子孫があふれ、貧困と憎悪が遍在する社会においては、物質的欲求を満たすこと自体が難題になってくる。
人々が承認欲求に頭を悩ます時代などすぐに終わる。
その次に来る時代は、もっとひどいものとなるだろうが。
と、これを結論とするのはあんまりなので、処方箋を一つ考える。
それは、マズローの図式通り、所属と愛の欲求をまず満たすことである。それができるコミュニティを生み出すことである。
それはSNS上に生まれるかもしれないし、新たな宗教として可能になるかもしれない。
私が承認されることよりも、誰もが承認しあえる、誰も見たことのない未来を思い描くことだ。その時点で私は既に、その社会に帰属している。その社会の名誉ある一員となることを、私の夢とすればいい。
未来は、私たち一人一人の選択と決断の結果として実現する。
だから友よ、正しく欲望することが肝要だ。