望田幸男著「ナチス追及」を読む

 講談社現代新書。
 ベルリンの壁崩壊直後の1990年に描かれた本作では、当然のことながらユーロ圏の支配者となった統一ドイツの姿も、移民とエコ思想でガタガタになった21世紀のドイツも描かれてはいない。
 30余年を経て今読むと、価値観のドラスティックな転倒が見られ、興味深い。
 大方の学者の例にもれず、著者望田氏は左派である。社会主義に共感を示し、勝者によるニュルンベルク裁判での遡及法によるナチ戦犯の処罰を当然のことと受け入れ、ドイツ同様日本も、第二次大戦での悪行について永遠に謝罪と反省をくりかえすべき、と言う立場である。
 
 第三帝国を動かした大物たちばかりではなく、非アーリア人の迫害やアウシュビッツでの虐殺に少しでも関与した者は、もれなくあぶりだされて処罰を受けなければならない。非ナチ化闘争と呼ばれるそうした運動が若者たちを駆り立てた情景は、ベルハルト・シュリンク『朗読者』に垣間見ることができる(シュリンクは本書においてナチス戦犯に同情的だとして厳しい非難をあびたそうだ)。
 
 若者たちが自分たちを育てた世代を糾弾する。子供が自分の親を告発することもあったそうだ。結構な地獄絵図だと思うが、著者はこの徹底ぶりを賞賛し、日本人の曖昧な態度を非難する。

 しかしこれは同時期に生じた安保闘争やアメリカのヒッピームーブメント、フランスの五月革命と通底する現象だろう。
 産業化の急速な進行による世代間の断絶、旧来の共同体的結合の破壊、帰属先の喪失が、若者たちを一つの群衆として結束させ、若者でない者たちへの反抗へと駆り立てた。
 思想内容はどうでもいい。ただの旗印にすぎない。
 それを証拠に、非ナチ化闘争の猖獗した時代の直後に、ネオナチ運動の時代が来るのである。

 ささいな、全く政治的でない争いをきっかけに、ミュンヘンの学生三万人がシュヴァービングの街を包囲し、車を攻撃したりした。
 以下は、これに参加した若者の発した言葉である。
「ビールとドイツ語をのぞいては、僕らと親父たちとの間に、何の共通点もありません。僕は過去のドイツに何のかかわりもない」

 日本のフォークソングに、これの相似形がある。
「戦争を知らずに、僕らは生まれた。戦争を知らない、子供たちさ」
 
 資本主義は人と人とのつながりを分解し、自由な個人を生み出す。これは本質的なものだ。若者は政治を語ることによって自分を語る。これも普遍的な話だ。何者でもない若者は、何者かになろうとして社会運動にすがる。
 そういう意味では、1960年代、70年代の政治運動と、21世紀の環境保護運動や性的少数者のための戦いとは本質的には同じものだ。

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