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無限大の夏 -インフィニット・サマー-
○作品データ○
タイトル:無限大の夏 -インフィニティ・サマー-
文字数:177852
舞台:日本(と、果てしなき世界)
ジャンル:量子ゆらぎ青春小説
一言紹介:大長編。入魂です。
4次元時空から11次元まで、果てしない階段を登れますか?
プロローグ――α崩壊
街を歩いていて、あれ? と思って立ち止まる。
この角にこんな店あったかな。
この電柱、昨日あったっけ? そんなふうに首を傾げる。
あそこの自転車屋、いつのまに美容院に変わったんだろう。
こんなところに公園なんかあった? 駅の向かいのビルって、あんなに高かったかな。商店街のスーパーのロゴって、あんな形だったっけ。
そんなふうに驚くことが増えた。今年に入ってからだ。
街の風景に違和感を覚える。記憶とちがう。
初めは気のせいだと思った。疲れてるんだ。ふだんボンヤリしてるから、なんでもない景色がいやに新鮮に見えたりする。前からあったものにいまさら驚いたりする。ただけそれだけのことだ、って。
でも最近は――夏になってからは――毎日のように見つかる。記憶とちがうものが。もう、自分を説得するのは難しい。
僕が知っていたものが消えていく。代わりに見知らぬものが置き換わってる。
いったいどうしてこんなことが起きるんだ……?
日に日に僕は追いつめられていく。
七月の熱の中で世界は溶けて崩れてしまう。僕の正気も蒸発する。
そんな、密かな破滅の予感に浸された、ある夏の日。
ねえ、と彼女は言った。
「私が、ぜんぶの答えを知ってるって言ったら、信じる?」
階段の上から、僕に声を投げてよこした。
薄闇の中で、彼女の姿は微かに輝いて見えた。まるで洞窟の中に咲く青白い花のように。
「ぜんぶって?」
僕は訊いた。胸が早鐘を打っている。
「なぜ、世界があるのか。どうして自分がいるのか」
時間が止まったような気がした。
僕は、
「…………」
彼女の名前を呼んだ。
「きみは……」
「あなたは、感じてるはず」
彼女の声が僕を打つ。
「世界がすり替わってることを」
ふっ、と花の香りが鼻をくすぐる。
1st Dimension
キシシシシシシシシシ、とセミが鳴いてる。
朝から元気なこった、と思った。
この街にもセミはいるんだ。たいして緑もないのに、街路樹にしがみついて一生懸命夏を演出してる。まあ、僕の住んでる区はたしかに、東京二十三区の中でもだいぶマイナーな区だけどさ。他の区よりは居心地がいいのかな。
でも、キシシシシシシシシシ……ってこんな鳴き声。軋んでるみたいだ。
セミの声ってこんなだったっけ。突然変異でも起きたのか? 姿は見えないけど、もしかして不気味な姿になってるんじゃないのか? いや、僕を嘲笑ってるのかな。
左脚を少し引きずりながら僕は歩道を歩いてる。制服――白のワイシャツに赤いネクタイ、グレーのスラックス――を着て、バス停から学校に向かってる。ブレザーは学校のロッカーに置きっぱなしだ。
建物の窓からも、地面のアスファルトからも照り返す陽射し。イヤな熱気が街中に垂れ込めていて、額をいくらぬぐっても汗が消えない。都会の夏に包囲されて、僕に逃げ場はなかった。
だから考えない。感じない。できるだけ。
頭は寝ようとする。実際、半分寝てる。現実を受け止めたくない。いまいる状況を考えたくない。目に入る風景を見たくない。あと一週間で夏休みだけど、気持ちはぜんぜん浮き立たなかった。僕は高校三年生なんだ。進路を決めなくては!
待ったなしだった。夏休み前に進路が決まってない生徒はほとんどいない。
なのに身体の動きは鈍い。頭の動きはもっと鈍い。自動操縦装置で登校してる気がした。
やがて校門が見えてくる。
レンガ色の門柱に金属のプレートが嵌め込んである。
〝学校法人 文殊学園〟
と書いてある。なかなか格調高い字体だ。
都内ではそこそこ有名な私立高校。一応、名門だ。歴史も古くて、設立は昭和初期らしい。たくさんの生徒たちが校門に吸い込まれてゆく。僕もそこに混じる。できるだけさりげなく。
学校の敷地に入ると、右奥に中等部、左手前に高等部がある。中等部は去年建て替えられたばかりだから、真っ白い壁が綺麗に光ってる。対して高等部は、戦後に建てられた石造りの重厚さを保っている。壁には蔦が這ってて、なかなか渋い外観だ。この校舎に憧れて入学してくる生徒もいるらしい。
僕もそうだったっけな? もう忘れた。
だっていまの僕には、古ぼけた遺物にしか見えない。
のろのろと昇降口を目指してると、元気な中等部の生徒たちが僕を追い越してゆく。
同じ敷地に通っているのに、中等部の生徒と高等部の生徒はちがう種類の生き物みたいだ。制服も、基本形は一緒だけど、中等部のほうはちょっとデザインをかわいくしてある。後輩たちはどんどん新しい校舎に飛び込んでいった。高等部には見向きもしない。まだシャイで、お兄さんお姉さんが眩しいのかもしれないけど、お兄さんのほうからすると突き放されてるような気がしないでもない。
まあでも、中等部に比べたら、高等部はちょっと大人ぶってて、制服も着崩したりしてやさぐれてる感じあるもんなあ。関わりたくないか。
僕は高等部の昇降口をくぐる前に、立ち止まって校舎を見上げた。
屋上から布が垂れ下がってる。
めざせ! 勝利 球技大会まであと[2]日
野暮ったい垂れ幕だ。数字のところが毎日張り替えられてる。
へえ、そっか。あさっては球技大会なんだねえ。
僕には関係ないけど。
口の端を歪めながら昇降口に入ろうとして、足を止めた。
下駄箱の奥のほうで、靴を履き替えてる男子生徒。あの頭の形、背格好……
あれ、均(ひとし)だよな?
ちょっと待とう。あいつが上履きをしっかり履いて、二階に行ってしまうまで。
下駄箱の陰に佇んでると、なにかが足に引っかかった。
右の膝と足首に痛みが走って「つっ」と声が出る。なんだ?
振り返ると、小っちゃな後ろ姿がパタパタ駆けていくところだった。
あれは……中等部の子か? あの小っちゃさからいって、たぶん一年生。なんでこっち来た? 校舎を間違えたのか。ボーッとしてたら、中等部と高等部をとり違えることも、まあないとは言えない。だけどそんなにあわてて逃げなくても……先輩の足を蹴たぐってまで……その子は一瞬、こっちを見た。
おかっぱ頭で、メガネをかけてる。メガネの奥にあるのは、鋭い眼差し。まるで変質者を睨みつけるような目だった。すぐに目を外して、一目散に中学校舎に駆けていく。
なんだよ。僕が悪いみたいじゃないか……突っ立っていると、
「チッ」
舌打ちが聞こえて身体がすくんだ。
目を向けられない。聞こえないフリをして、のろのろと自分の下駄箱のほうへ向かう。舌打ちの主からできるだけ遠ざかる。あいつとは列が違う。順(じゅん)の箱は向こう、僕の箱はこっち――
気配が消えた。早く行け順、自分の教室へ――僕はやり過ごす。「チッ」だけは勘弁だから。学校でいちばん恐れてる音と言ってもいい。
たっぷり一分待って、僕はようやく動き出す。
ああ……朝から二人に会っちまった。
どっちか片っぽならともかく、両方だぜ。幸先が悪い。
ほんとに打たれ弱くなってる、と思った。なにが起こっても悪い前兆に思える。
僕は笑った。と言うより、笑顔を作った。悪い前兆って、どうせろくでもない日々が続いてるじゃねーか。これ以上悪くなったら笑うしかねーだろ。
強ばった笑みを顔に貼りつけたまま、上履きに履き替えて廊下を進む。三年生の教室は二階にある。
階段にさしかかると、手すりをしっかり握って息を整えた。
均が、そして順が、もう上がっていった階段。それを一段一段上ってゆく。
あとから来た同級生や下級生がどんどん僕を追い越してゆく。ちぇっ、僕だってその気になれば元気に登れる。だけどちょっと足が痛いから、もっと傷めてしまうのが怖いから、一応ゆっくり登ってるだけなんだ。
踏み込むたびに、左の腿裏がピキッと言った。右膝にもなにかが引っかかっているような痛みがある。回れ右して家に帰りたくなる。くそーと言いながらどうにか階段を上りきった。
僕の教室は3A。階段の近くなのだけは助かる。足を引きずりながら教室に入ると、自分の席に目をやる。窓際の、後ろから二つ目の席。
あ――いた。きょうも。
僕の席に座ってる生徒がいる。
できるだけなんでもない顔をして近づく。僕の席の生徒がこっちを見た。
「あ、悟くん。おはよう」
にこやかにあいさつしてくれる。だけど僕は、ああ、うん、と聞こえるか聞こえないかくらいの声で返すだけだ。目を伏せながら。
彼女は口の端を上げた。また眠そうな顔して、とか思ってるんだろう。朝からこんな席座ってるから、この顔見る破目になるんだぜ。
彼女の名前は、思惟子(しいこ)。別のクラスの女子だ。
毎朝ってわけじゃない。でもこの子は、かなり高い確率で僕の席に座っている。そして、すぐ後ろの席の女子と喋ってる。仲がいいらしい。だから、僕目当てじゃない。友達に会いに来てるだけで、僕が現れると思惟子は席を立って自分のクラスに戻っていく。
ただ、後ろの席の女の子は病気がちで、学校を休むことも多かった。そんな日でも思惟子は僕の席に座ってることがある。で、窓からじっと外を眺めてるのだ。
きょうもそうだった。
僕の怪訝そうな顔に気づいたんだろう、彼女はこう言った。
「この席からの景色が好きなの」
「へー……」
としか言えなかった。じゃ、特等席ってわけだ。この席は。
まあ僕もこの席は嫌いじゃない。校庭が見渡せるし、校庭の向こうに広がる街並みもよく見える。だけど、学校じゅうでいちばん眺めがいい席かっていうと、そんなことないと思う。
思惟子は名残惜しそうに、もう一度窓の外に目をやってから、腰を浮かした。
「じゃね」
と言って去ってゆく。勢いがあった。すれ違うとき、彼女の細い腕が僕にぶつかりそうになる。
僕は動けない。
彼女の身体はどこにも触れなかった。長い髪が、ふわっと揺らめいて鼻先をかすめただけ。花のような香りがした――甘くて、でも品のある香り。僕がなんとなく振り返ると、教室を出て行く彼女もこっちを振り返った。
小さく手を振る。
え。僕に?
手を振り返す間もなく、思惟子の姿は消えた。
いまの顔……笑ってたよな。うわ、珍しい。いつもはつんとしてて、めったに笑わないのに。きょうはきみの友だち休みだぜ。その子に笑いかけるんならともかく……なにやってんだよ。
自分がどんな顔で見送ったのか心配になった。教室中の視線が気になる。みんなに顔を見られないように、窓の外を見ながら席に着いた。あわててたからズキッ、と右足首が痛んで顔を歪める。
彼女がいなくならないと自分の席に座れない。なのに、彼女がいなくなると火が消えたように淋しかった。
椅子には、彼女の体温がまだ残っている。僕は目を閉じた。そのほのかな温もりを、できるだけ長く感じていたい。だが担任が入ってきてホームルームが始まった。ああ、長い一日の始まりだ……僕は窓の外に目をやった。
東京の学校にしては、広い校庭がある。一周四〇〇メートルの陸上トラックのほかに、野球場やテニスコートまである。窓は南西を向いていて、右手には神社、左手にはお寺がある。その間を埋めるのは、下町情緒の残る住宅街。でもところどころ真新しい建物が挟まってるからすごくアンバランス。都市計画とか環境デザインとか、そういうセンスって日本人には欠けてるのかも知れない。
住宅街の真ん中に小学校が見える。その向こうには駅がある。駅自体はここからよく見えない。線路も電車も見えないけど、踏切のカンカンカンって音やゴーッと電車が行く音だけは、風向きの具合でここまで届くことがある。僕の家は、線路を越えたさらに向こうだ。
窓からの見慣れた景色。ふだん通りの日常。それって、退屈ってことだ。ふつうは。
だけど僕には意味が違う。見慣れた景色だけに囲まれていたい。退屈でいたいくらいだ。
見つけたくない。窓から目をそらして、椅子に深々と腰かけてふううう、と息を吐く。
こっそり鼻をクンクンやった。まだ思惟子の香りが残ってるかと思って。
跡形もなかった。
思惟子がそばにいる間だけ、嗅ぐことができる香り。僕はたぶん、どこにいても気づくことができる。思惟子がそばに来れば分かる。たぶん、どんな香水ともちがう香り。
僕が学校に来る理由って言ったら、実はこれだけかもな、と思った。この朝の一瞬のため。彼女の姿を見て、短いあいさつを聞いて、この香りに目を閉じて、椅子に残るわずかな体温を感じること。もうすぐ夏休みだから、彼女の姿もしばらく見られなくなる。この、椅子に残る体温ともお別れか……なに考えてんだおれ。ごまかすみたいに、また窓の外に目をやる。
ん? と思って僕は背もたれから身体を放す。
ひゅっ、という音が耳を襲った。目の前が暗くなる。いきなり気圧が下がったみたいな……僕はまばたきを繰り返す。視界がかすんでうまく焦点を結ばない。窓に顔を近づけた。外の風景に神経を集中する。こんなときはたいがい、見つけてしまう。あんまり景色を見るな、捜すなやめろ……
――ある。見慣れないものが。
あーあ。見つけてしまった……教会の尖塔のような細長い建物が、家々の間からニュッと突き出ていた。
駅のほう。区民会館のとなりあたりかな。
まただ、と思った。あんなの、昨日までなかったのに。
僕は深呼吸して目を閉じる。やめとこ。きりがない。気にしない。
いちいち考えこむとモヤモヤして動悸が速まって夜も眠れなくなる。
でも――ここからの風景、写メ撮っとこうかなあ。で、また「あれ?」って思ったら、景色と画像を比べてみる。そうすれば僕の違和感が気のせいなのか、ほんものなのか分かる。――そんなことできない。クラスメートが見てるところでカシャッ、とかやったら、なんだコイツとうとうイカレたか、と思われる。こんな飽き飽きしてる風景なんか写真に撮ってどうすんだ? ったく変わりもんがよ……そんな陰口が聞こえそうだ。
いや、怖いのはそんなことじゃない。
きのう撮った画像と、きょう見た景色がほんとうにちがってることだ。
もしそんなことになったら――いやだ。頭がおかしくなる。
僕は急いで右手で左の胸を抑える。ああ、心臓が痛い。
左の手は、ごまかすように机の中を探ってた。今日の一限目はなんだっけ? 教科書を出さなきゃ、ノートを……手に触れたものを、闇雲に出す。机の上に載せる。
「はん?」
マヌケな声が出た。見たことのない本が、目の前にあった。
ちょっと古めかしいデザインとロゴ。青い花のイラストが描かれている。なんの本だこれ。ひっくり返すとラベルが貼ってある。
〝学校法人文殊学園図書室〟
うちの図書室の本だ。だけどこんなの、借りた覚えないぞ。
僕は一回教室を見回してから、本を取り、また机の中に押し込めた。
2nd Dimension
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