JR横須賀線の横須賀トンネルについて

JR横須賀線の横須賀駅〜衣笠駅間には2つのトンネルがある。そのうち横須賀駅から2つ目が「横須賀トンネル」で、全長が約2kmと長いため通過に2分近くかかる。

この横須賀トンネルは途中で京急線と交差するため山岳トンネルでは珍しく突込み勾配で凹型部分があり、溜まった水をポンプで常時汲み上げていることは有名だが、 Twitter (当時、現 X )でしーさいど氏の投稿を見て開削で施工した区間があることを知った。

横須賀線のトンネルも坂本のバス通りもよく通っていたので自分でも調べてみることにしたものの、あまり進捗がなくなってきたので一旦現時点でわかったことをまとめておく。

なお、特に断りのないものは昭和25年(1950年)に出版された「土木工学の概観 1940~1945」に記載されている内容に依っている。


トンネル概要

延長: 2,089m(現地に2,039mの表示あり)
着工: 昭和16年(1941年)9月
竣工: 昭和19年(1944年)2月

横須賀トンネル附近平面図
横須賀トンネル附近縦断面図

建設工事

横須賀線は明治22年(1889年)に大船駅〜横須賀駅間が開通した。当初は浦賀まで延伸する計画だったが、予算等の理由により長らく横須賀駅が終点だった。日中戦争以降は久里浜周辺に軍事施設が増えたため、軍からの要請により昭和16年(1941年)に横須賀〜久里浜間の延伸工事に着手、昭和19年(1944年)4月1日に開業した。線路を通しやすい平作川沿いのルートが採られ、横須賀駅から衣笠駅の間はトンネルで抜けることとなった。

トンネルは当初4本とする予定だったが、地表からの水の流入を防ぐため途中の谷間にある明かり区間をふさいで「逸見トンネル」と「横須賀トンネル」の2つのトンネルになった。昭和32年(1957年)発行の「横須賀市史」では、防空上の理由としている。また、久里浜までの全区間が複線の設計で、当初は単線で暫定開業し、開通後に複線化する計画だった。

横須賀トンネルは大船方・久里浜方それぞれの坑口に加え、途中の3箇所(汐入ポンプ室附近、坂本の谷戸附近、坂本台団地附近)をあわせた計5箇所から掘り進められた。先の「横須賀市史」によると、作業には主に朝鮮人労働者が動員され、海軍からも人的・物的な支援があったとのことである。

通常、トンネルを掘って発生した土砂(ズリ)は築堤などで盛土として利用されるが、これらのトンネルから出たズリは効率を無視して安浦海岸へと捨てられた。土砂の運搬は久里浜方の坑口を除きトラックが用いられたが、戦局の逼迫による燃料難でズリ捨てが工程上のボトルネックだったようだ。同時期に久里浜方面の電化工事を受託していた鉄道電気工業(現、日本電設工業株式会社)の中川氏は「尻に煙突をつけた古トラックは2日稼行すれば3日修理に出るという有様」と回想している。

海軍の支援があったとはいえ、単線化した御殿場線からレールを転用したり、足りない資材を闇値で調達するなど、資材の不足や作業員の不足に相当苦労したようだ。

なお鉄道の延長にあわせて、国道16号線(当時は31号)との平面交差を避けるため、道路の付替えが行われた。これに伴い国道にも「横須賀トンネル」が掘られ、終戦直後の昭和20年(1945年)9月に竣工したが、トンネル前後の道路工事が終わらず付替えが完了したのは竣工から数年たってからだったようだ。

京急線との交差部分

冒頭に記載した通り、横須賀トンネル内で京急線と交差する。京急線側は逸見第1踏切道がある箇所だ。土被りが浅くトンネル上部に水路函渠を挟み京急線の線路が直接載るため、この区間は鉄筋コンクリート覆工となっている。

戦後すぐの昭和21年(1946年)に撮影された空中写真を見ると、交差部分前後は家屋がなく更地となっている様子が確認できる。

京急線と交差する正確な位置はわかっていないが、踏切直下もしくは踏切よりやや汐入駅寄りと思われる。

なお、京急の前身である湘南電鉄建設時の図面では、この附近には2つの踏切が設置されることになっている。現在の踏切は1つだけだが、登記所備付地図データではこの2か所が「道」「長狭物不明」となっている。開業時から踏切は1つだけだったのか、開業後に統合されたのかはわからない。もしかすると、横須賀トンネルの工事にあわせて統合されたのかもしれない。

汐入ポンプ室

京急線との交差部から30mほど南へ進んだ場所に、トンネルの最低部分に集まった水を排水するための横浜電力技術センター汐入ポンプ室がある。この辺りがトンネルの最低部で、トンネルの底は東京湾が満潮になる時水位とほぼ同じ高さになるそうだ。

建設当初は40馬力2台と10馬力2台の計4台の排水ポンプが設置される計画であったが、昭和19年(1944年)4月の開通時点では未完成だったため、大雨のたびにトンネルが水没して電車の運転ができなくなったそうだ。

鉄道ピクトリアル1974年9月号に掲載されている沢和哉氏の「軍部の要請と横須賀線の建設(下)」では、度重なる水没に業を煮やした海軍が水兵100人で消防ポンプ20台余を運んできたがトンネルの底に届かずブツブツ文句を言いながら引き上げていったというエピソードを、建設時に大船電力区長だった石崎勇氏が昭和44年(1966年)に語った回顧談として紹介している。

ポンプ室附近はトンネルの掘削開始地点の1つで、京急線との交差部と連続しているため開削で施工されたとされる。そのためか、隣接する汐入5丁目公園もJR東日本の社有地となっている(令和5年(2023年)時点の不動産登記情報で確認)。

トンネルから汲上げた水をどのように処理しているのかは不明である。排水と関係あるかどうかはわからないが、横須賀市の「上下水道管路(下水道施設台帳)」を見ると、雨水函渠がJR敷地内を通過している(汚水は通過していない)。

坂本の谷戸附近

汐入ポンプ室附近から上り勾配になると、汐入町と坂本町の境目附近で一旦地表へ顔を出す予定であった。しかしながら、先に記した通り、水の流入を防ぐため土を盛ってひと続きのトンネルとした。

続いて短いトンネルを抜けると再度地表へ出る予定であったが、こちらも同じ理由で明かり区間が塞がれている。

これらの蓋をした部分は土被りが浅いため、現在もJR東日本の社有地となっており、貸駐車場として利用されている。地下のトンネルについても、他の区間と覆工が異なっているとのことである。

なお、この辺りもトンネルの掘削開始地点の1つである。

坂本台団地附近

先の谷戸附近から上り勾配がきつくなり、坂本3丁目へと入った辺りでサミットとなる。そこから先は下り勾配で衣笠側の出口へと向かう。

途中に3箇所あるトンネル掘削開始地点の残る1つがこのサミット附近で、深さ約11mの立坑を掘りそこから掘り進めたとのことだ。

しかしながら、戦後の宅地造成により建設時と地形が大きく変わってしまっていて、どこに立坑があったのかわからない。終戦後すぐの時期に撮影された空中写真を見てもよくわからなかった。

地上権設定

横須賀線のトンネルが通っていると思われる土地の不動産登記情報を確認すると、JR東日本が所有していない土地については地上権が設定されていることが確認できる。

設定されている地上権の例

公図(旧土地台帳附属地図)を見ると、トンネルが通っている箇所に2本の線が浮かんでくる。昭和16年の着工時は複線の計画だったので、当時の鉄道省により単線トンネル2本分の土地に地上権が設定されたようだ。

公図は最近「登記所備付地図の電子データ」としてオープンデータ化されたため確認がしやすくなったが、横須賀トンネル周辺は地籍調査が済んでいないため、明治時代にベースが作られた旧土地台帳附属地図のままとなっている。そのため現況と大きくズレが生じている箇所があり、トンネル部分はきれいな直線にはならない。

鉄道省による地上権は1000年を期間として設定されており、国鉄、JR東日本へと引継がれている。最近変更のあった筆については、工作物設置の範囲を限定した区分地上権の設定へと変わっている箇所も見受けられる。

設定されている区分地上権の例

キロ程

トンネル部分の平面図と縦断面図は、「土木工学の概観 1940〜1945」に記載されているものと、昭和41年(1966年)現在の「線路一覧略図」が確認できた。しかしながら両者で大船起点のキロ程に360m程のズレが生じている。

おそらく前者が本来「16.047km」とすべきものを「16.407km」と誤って記載したものと思われるが、本文中すべてと図中のキロ程も同様なので確証はない。

明治25年(1892年)の「鉄道線路各種建造物明細録」によると横須賀線の起点は大船駅停車場中心よりも0マイル14チェーン60リンク東京寄りとなっており、大正4年(1915年)の「東海道線大船停車場平面図」でも同様なので、そのズレの可能性もあると考えたが、これは約280mに相当するため計算が合わない。

日本国有鉄道百年史では明治22年に開業した際のキロ程を「10マイル3チェーン〔16.2km〕」と記しており、0.3kmの差異があるが、これも大船起点の取り方に起因するものと思われる。なお営業マイルは明治35年(1902年)に10.0マイルへ変更されている。

なお昭和41年の線路一覧略図も、衣笠側の金谷ガード附近の勾配が現況と異なっている。そのため、トンネル内の勾配や曲線についても異なっている可能性がある。線路一覧略図をもとにして作成された縦断面図は雑誌や書籍に掲載されている場合があるが、精査できていない。

参考資料


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