目に見えないものに、目に見えるものに。
うちの奥さんの光葉は
たまに詩を書いたりもするのですが
彼女の作品のなかで
この『まぶたの裏』という詩が結構好きなんです。
「 目に見えるもの 」に
どれほど
「 目に見えないもの 」を
みられるでしょう
「 目に見えないもの 」を
どれほど
「 目に見えるもの 」に
できるでしょう
そんなことが
まぶたの裏に
書いてある気がするのです
目に見えないもの、目に見えるもの
そこに何を見いだすのか。
昔からなんとなく
そんなことを考えてきてはいて
でも日常の目の前のことに振り回されては
見いだせなくなることが本当に本当に多くて。
そんなときにこの詩を読んだりすると
自分の視点がフラットになれて
振り回されて見いだせなくなってることに
気づかせてもらえたりするんです。
そういえば最近
サッカー現場や保育園などで
見いだせてる実感を得られることが増えたのですが
それは詩が生まれたことが影響してるのかもなぁ。
彼の意思を見いだそうとしている日々だから。
そんな自分の
「そこに何を見いだすのか」という視点に
多大な影響を与えてくれた人のひとりに
ドキュメンタリー監督の龍村仁さんがいます。
彼の『ガイアシンフォニー』という
ドキュメンタリー映画から
たくさんのインスピレーションをもらってきました。
じつは
龍村さんが今年の1月に他界されていたことを
つい先ほど知りました。
彼の想いが少しでも広がることを願って
最後に、龍村さんの文章を紹介させてもらいます。
中学校の教科書にも載っている
『ガイアの知性』という文章になります。
R.I.P 龍村仁
ここ数年、わたしには
鯨と象を撮影する機会がとても多かった。
特に意識的に選んだつもリはないのに、
結果としてそうなってきた理由を考えてみると、
これは、鯨や象と深くつきあっている人たちが皆、
人間としてとてもおもしろかったからだ。
人種も職業も皆それぞれ異なっているのに、
彼らには独特の、共通した雰囲気がある。
彼らは、鯨や象を、
自分の知的好奇心の対象とは考えなくなってきている。
鯨や象から、なにかとてつもなく
大切なものを学び取ろうとしている。
そして、鯨や象に対して、
畏敬の念さえ抱いているようにみえる。
人間が、どうして野生の動物に対して
畏敬の念まで抱くようになってしまうのだろうか。
この、人間に対する興味から、
わたしも鯨や象に興味を抱くようになった。
そして、自然の中での鯨や象との出会いを重ね、
彼らのことを知れば知るほど、わたしもまた、
鯨や象に畏敬の念を抱くようになった。
今では、鯨と象は、
わたしたち人類にある重大な示唆を与えるために、
あの大きな体で(現在の地球環境では
体が大きければ大きいほど生きるのが難しい)
数千万年もの間この地球に
生き続けてきてくれたのでは、とさえ思っている。
大脳新皮質の大きさとその複雑さからみて、
鯨と象と人はほぼ対等の精神活動ができる、
と考えられる。すなわち、この三種は、
地球上で最も高度に進化した
「知性」をもった存在だ、ということができる。
実際、この三種の誕生からの成長過程は
ほぼ同じで、あらゆる動物の中で最も遅い。
一歳は一歳、二歳は二歳、
十五、六歳でほぼ一人前になリ、
寿命も六、七十歳から長寿のもので百歳まで生きる。
本能だけで生きるのではなく、
年長者から生きるための
さまざまな知恵を学ぶために、
これだけゆっくリと成長するのだろう。
このような点からみると、
鯨と象と人は確かに似ている。
しかし、だれの目にも明らかなように、
人と他の二種とは何かが決定的に違っている。
現代人の中で、
鯨や象が自分たちに匹敵する「知性」を
もった存在である、と素直に信じられる人は、
まずほとんどいないだろう。
それは、我々が、
言葉や文字を生み出し、
道具や機械をつくリ、
交通や通信手段を進歩させ、
今やこの地球の全生命の未来を
左右できるほどに科学技術を進歩させた、
この能力を「知性」だと思いこんでいるからだ。
これらの点からみれば、
自らは何も生産せず、
自然が与えてくれるものだけを食べて生き、
あとは何もしないでいるようにみえる
(実はそうではないのだが)鯨や象が、
自分たちと対等の「知性」をもった存在とは
とても思えないのは、当然のことである。
しかし、一九六〇年代に入って、
さまざまな動機から、鯨や象たちと
深いつきあいをするようになった人たちの中から、
この「常識」に対する疑問が生まれ始めた。
鯨や象は、人の「知性」とは全く別種の
「知性」をもっているのではないか、
あるいは、人の「知性」は、このガイアに存在する
大きな「知性」の偏った一面の現れであリ、
もう一方の面に鯨や象の「知性」が
存在するのではないか、という疑問である。
この疑問は、
最初、水族館に捕らえられた
オルカ(シャチ)やイルカに芸を教えようとする
調教師や医者や心理学者、その手伝いをした
音楽家、鯨の脳に興味をもつ
大脳生理学者たちの実体験から生まれた。
彼らが異口同音に言う言葉がある。
それは、オルカやイルカは決して、
ただえさを欲しいがために
本能的に芸をしているのではない、ということである。
彼らは捕らわれの身となった自分の状況を、
はっきリ認識している、という、そして、
その状況を自ら受け人れると決意した時、初めて、
自分とコミュニケーションしようとしている人間、
さしあたっては調教師を喜ばせるために、
そしてその状況の下で自分自身も、
精いっぱい生きることを楽しむために、
「芸」と呼ばれることを始めるのだ。
水族館でオルカが見せてくれる「芸」のほとんどは、
実は人間がオルカに強制的に教えこんだものではない。
オルカのほうが、人間が求めていることを
正確に理解し、自分のもっている高度な能力を、
か弱い人間(調教師)のレベルに合わせて制御し、
調整をしながら使っているからこそ
可能になる「芸」なのだ。
例えば、
体長七メートルもある巨大なオルカが、
狭いプールでちっぽけな人間を
背ビレにつかまらせたまま猛スピードで泳ぎ、
プールの端にくると、合図もないのに
自ら細心の注意をはらって
人間が落ちないようにスピードを落とし、
そのまま人間をプールサイドに立たせてやる。
また、水中から、直立姿勢の人間を
自分の鼻先に立たせたまま上昇し、
その人間を空中に放リ出す際には、その人間が決して
プールサイドのコンクリートの上に投げ出されず、
再び水中の安全な場所に落下するよう、
スピード・高さ・方向などを三次元レベルで調整する。
こんなことがはたして、
ムチと飴による人間の強制だけでできるだろうか。
ましてオルカは水中で生活している
七メートルの巨体の持ち主なのだ。
そこには、人間の強制ではなく、明らかに、
オルカ自身の意志と選択がはたらいている。
狭いプールに閉じこめられ、
本来もっている高度な能力の何万分の一も
使えない過酷な状況におかれながらも、
自分が「友」として受け人れることを
決意した人間を喜ばせ、
そして自分自身も生きることを楽しむ
オルカの「心」があるからこそできることなのだ。
また、こんな話もある。
人間が彼らに何かを教えようとすると、
彼らの理解能力は驚くべき速さだそうだけれども、
同時に、彼らもまた人間に
何かを教えようとする、というのだ。
フロリダの若い学者が、
一頭の雌イルカに名前をつけ、
それを発音させようと試みた。
イルカと人間では声帯が大きく異なるので、
なかなかうまくいかなかった。
それでも、少しうまくいったときには、
その学者は頭を上下にうんうんと振った。
二人(一人と一頭か)の間ではそのしぐさが、
互いに了解した、という合図だった。
何度も繰リ返しているうちに、学者は、
そのイルカが自分の名前とは別の、
イルカ語のある音節を
同時に繰リ返し発音するのに気がついた。
しかしそれが何を意味するのかはわからなかった。
そしてある時、はたと気づいた。
「彼女はわたしにイルカ語の名前をつけ、
それをわたしに発音せよ、
と言っているのではないか。」
そう思った彼は、必死でその発音を試みた。
自分でも少しうまくいったかな、と思った時、
なんとその雌イルカは、うんうんと頭を振リ、
とてもうれしそうにプールじゅうを
はしゃぎまわったというのだ。
象については、こんな話がある。
アフリカのケニアで、
ある自然保護官が象の寿命を調べるため、
自然死した象の歯を集めていた。
草原で新しく見つけた歯を持ち帰リ
倉庫に納めておいたところ、
その日から毎晩、巨大な象がやってきて、
倉庫のかんぬきを開けようとする。
不思議に思ったその保護官は、ある晩、
かんぬきを開けたままにしておいた。
すると、翌朝、
数百個も集められていた歯の中から、
その新しく収集した歯だけがなくなっていた。
保護官がその歯を捜したところ、
その歯はなんと、彼が発見した
まさにその場所に戻されていたのだ。
毎晩倉庫にやってきた象は、
たぶん亡くなった象の肉親だったのだろう。
それにしてもその象は、
どうやって歯が倉庫にあることを知ったのだろう。
数百個もある歯の中から、
どうやって肉親の歯を見分けたのたろう。
そして最大のなぞは、その象が、
なぜ歯を元の場所にわざわざ戻したのだろう、
ということだ。
このように、
鯨や象が高度な「知性」をもっていることは、
たぶんまちがいない事実だ。
しかし、その「知性」は、
科学技術を進歩させてきた
人間の「知性」とは大きく違うものだ。
人間の「知性」は、
自分たちだけの安全と
便利さのために自然をコントロールし、
意のままに支配しようとする、
いわば「攻撃的な知性」だ。
この「攻撃的な知性」を
あまリにも進歩させてきた結果として
人間は環境破壊を起こし、
地球全体の生命を危機に陥れている。
これに対して、
鯨や象のもつ「知性」は、
いわば「受容的な知性」とでも呼べるものだ。
彼らは、
自然をコントロールしようなどとはいっさい思わず、
そのかわリ、この自然のもつ
無限に多様で複雑な営みを、
できるだけ繊細に理解し、
それに適応して生きるために、
その高度な「知性」を使っている。
だからこそ彼らは、
我々人類よりはるか以前から、
あの大きな体でこの地球に生きながらえてきたのだ。
同じ地球に生まれながら、
片面だけの「知性」を
異常に進歩させてしまった我々人類は、今、
もう一方の「知性」の持ち主である
鯨や象たちからさまざまなことを学ぶことによって、
真の意味の「ガイアの知性」に
進化する必要がある、とわたしは思っている。