見出し画像

読書記録#3 金達寿『金達寿小説集』講談社文芸文庫

金達寿『金達寿小説集』講談社文芸文庫

 金達寿は、韓国(朝鮮)近代文学の歴史について読んでいると必ずと言ってよいほど名前が出てくる作家である。だからぜひ読んでみたいと思っていたのだがなかなか実物の本に出会えず、思いがけず家のほど近い場所にある古書店で入手できたのがこちら。
 金達寿は1920年生、十歳のときに渡日して以来生涯を日本で過ごし、作品も日本語で書いたので、厳密には「在日朝鮮人作家」ということになる。当然、作品を読むにあたっては当時の日朝関係、すなわち日本による朝鮮半島の植民地支配ということを念頭におく必要がある。本書の帯には「日本語ゼロから出発した日本文学史上の異才」と記されているが、これも「日本語ゼロから出発するよりしかたなかった」というのが実情に近いのではないかと思う(ただ、内地=日本の学校に通いはじめてから日本語を習得する速度は非常に速かったらしい〈「解説」p.299〉)。

 上記のようなことをふまえて読んでみる。すると、「日本」との関係がバックグラウンドにありつつも、その筆致はあくまで物語としての一定のリズムに裏打ちされ、こう言ってよければ「読みやすく」、ときにユーモラスですらあることに気がつく。特に芥川賞候補にもなった「朴達の裁判」の主人公・朴達(パクタリ)のムーヴはfunnyという意味で普通に面白いと思ってしまうところが多々ある。苛烈な拷問の場面もある作品なのだが、言ってみればそうした場面との対比までもがこの作品の強い印象につながっている(で、この拷問場面の“オチ”がまた、皮肉が効いている)。

 この時代に作品を書くにあたっては「避けようのない深刻さ」というものがまずあって、そこに対して作家ごとにさまざまなアプローチが試みられたのだと思うけれど、金達寿のようにユーモア、あるいは「ライトさ」でもって作品を彩った人物として、ふと詩人・尹東柱を想起した。彼もまた戦時中の朝鮮〜日本に生きた人物として、多くの苦難に直面しながらも、あくまで朴訥とした小さな風景を詩に残している。文学までもプロパガンダのために利用され得た時代に、作品に素朴さ、あるいはふっと笑える要素を残すことは、絶望に精神をもっていかれないための一つの手段であったのではないか、と思う。

 先述の「朴達の裁判」と「対馬まで」が特に印象に残った。前者は朴達のトリックスター的な振る舞いと饒舌な台詞から目が離せない。後者はフィクションでなく、作者自身の実体験で、天気がよければ対岸に朝鮮半島をみることができる(らしい)対馬に旅行に行く話。なぜ直接韓国に行かず対馬に見にいくのか? という疑問も本書で解説される。
 本書が現在、電子版のみの流通になっているのがなんとも惜しく感じる。

いいなと思ったら応援しよう!