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日本の危機を救った英雄たち。(中世まで5人)

僕が歴史上の英雄と思った人々。もちろん、日本のために戦った数多くの英霊や働く人々、家族や仲間を守るために生きた人々すべてが英雄。

①神武天皇…伝説上の人ですが。弥生時代、日本には卑弥呼など多くの小国が分裂して争う「倭国大乱」の状態。その中、日向(九州)のイワレビコは、戦乱を終わらせるために、どこに向かうか考え、大和を目指す。筑紫(九州北部)と安芸(広島)や吉備(岡山)を経て、浪速(大阪)でナガスネビコと戦い、兄を亡くす。しかし紀国(和歌山)に入り、天照大神(アマテラス=日本最高の神)と高木神(タカギムスビ=日本をつくった神々の1柱で生産の神)の与えし大刀と八咫烏の案内で進み、なんやかんや進み、ついにラスボスの「ナガスネビコ」との決戦の時、ナガスネビコの神だがイワレビコを天照大神の子孫と認めた「ニギハヤヒ」がナガスネビコをほろぼす(ニギハヤヒは物部氏の祖)。
そして神々の祝福と、各地の神々の臣従により、イワレビコは神武天皇として即位し、日本の統一と戦乱の終わりへ向かっていった。

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確かに神話の人物であるが、そのモデルはもちろんいるわけで。結果的に弥生時代の倭国大乱が終息し、大和時代となっても豪族(日本各地の有力者)たちの争いはあったろうが、平和の世のきっかけをつくったと言えよう。
戦乱の世の終息を進めた英雄としては、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三傑と並べても良いと思う。

②仁徳天皇…世界最大の面積の墓である「大仙古墳」(世界遺産へ)の主といわれる。仁徳天皇の「民のかまど」という伝承がある。
仁徳天皇が山から国見をしたとき、人々の家のかまどに煙が出てない(ご飯を炊けていない)のを知り、3年間税の徴収を禁止する。
天皇は財産を得ず、皇居(家)は壊れ、屋根も穴が開き雨漏りは大変だが星空はよく見えたらしい。
天皇は3年後、また国見をしたときに、かまどから煙がのぼるのを満足した。そして「さらに3年税の徴収を禁止した」。
やがて、人々が税の徴収と皇居の修理を願い出る。
「我が君が、こんな貧相な住まいにいることが申し訳ない!」
仁徳天皇はその後も、かんがい工事や河内平野の治水工事を進めた。その仁徳が亡くなったあとにつくられたのが世界最大の墓で世界遺産にもなった「大仙古墳」といわれる。
この話は神話とも言われるが、「仁徳」という諱が名付けられ、聖帝とも伝えられたこの話は、天皇家にも天皇と国民とのつきあいかたの教訓として語り継がれている。
一概に「日本の危機を救った」と言えないかもしれないが、確かに日本を救った英雄の1人である昭和天皇はこの仁徳天皇を手本としていたらしい。
仁徳天皇が国民を「大御宝(おおみたから)」としたこの精神が、日本を救ってきた根本といえよう。

③中大兄皇子…聖徳太子の死後、聖徳太子以前から権勢をもっており天皇の暗殺までも行った蘇我氏が天皇をしのぐ勢力をますます持った。
国が蘇我氏にのっとられるかもしれない。その蘇我氏の殲滅をし、蘇我氏など各地の王族(豪族)を国(天皇)の土地とする大化の改新を行った。天皇の全国支配が完成したのだ。

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(中大兄は母の前で殺人をおかした。よほどの覚悟をもって蘇我入鹿をたおしたのだろう。首がものすごく飛んでいる。力の入れ方を考えさせる)


中大兄皇子は、中国の勢力拡大を恐れたと仮定する。中華は世界の中心という意味であり、周辺国を服属させていた。
聖徳太子は中国と対等な関係と成功した。中国のしくみをとりいれて、日本は中国に飲み込まれないようにしたのだろう。
そして、中大兄皇子は隋をほろぼし唐をつくった画期的な勢力・中国の皇帝のしくみを取り入れて、大化の改新にて、天皇が日本全国を支配するしくみをつくったのである。
国民は国のために税を納める。そして国のために労役や兵役を行い、国とともに生きて死ぬ。
国は国民に土地を与え(口分田、班田収授法)土地耕作の権利を与え生活を保障し、そして国のために尽力するためあらゆる負担を課したのだ。
日本は友好国である百済を助ける名目で、唐と新羅の連合軍と戦う。敗北し、国内の戸籍制度などの政治体制と防衛体制(外交と防衛部署である大宰府の設置や防人制度など)を整える。
物事には必ず良い点と悪い点があり、もちろん国民へ重い税負担を課し苦しめるきっかけになったろうが、まさに安全保障と社会保障の体制づくりを進めたのだ。

④藤原隆家…日本が外国に攻撃・侵略された事件は、鎌倉時代の元寇と太平洋戦争のアメリカの空爆だけのように思われる。
しかし、元寇以前に度々、海外の海賊に侵略されたことがある。平安時代の「刀伊の入寇」だ。(刀伊=東夷=東の蛮族、寇=侵入者)
のち満州民族となる「女真族」(中国東北部の民族)による海賊たちが、九州を襲撃する。対馬に50隻3000人が襲い、36人が殺害、346人が拉致される。壱岐にも老人や子供を殺害、若い男女を拉致し、牛馬を食い荒らす。
国司の藤原理忠は147人の兵を率いるが3000人の前に敗北。
結果、島民148人が殺され、女性239人が拉致され、生存者はたった35名。
さらに九州北部を襲撃する刀伊に対し、ちょうど藤原道長の政権下、眼病を患い大宰府の名医の治療にあたるために任官された藤原隆家が、刀伊の博多侵入を撃退する。
隆家の子孫は多くの貴族として家が残り、頼朝の助命を清盛に進言した清盛の継母・池禅尼がいたり、元寇で活躍する菊池氏も隆家の子孫といわれる。
もしこの人がいなかったら、九州は刀伊の海賊どもにもっと甚大な被害を受けていたろう。

⑤北条時宗…元寇という国難を退いた鎌倉幕府のリーダー。
当時アジアからヨーロッパまで版図を広げた世界最強(最大で面積3300万らしく現在世界最大のロシア1700万の2倍くらい・世界最大の領土をもった大英帝国にせまる)のモンゴル帝国を築いたフビライハンが大宰府に「モンゴルに服属するよう」恫喝の手紙を出した年に18歳で8代目執権となる。
フビライの使者が何度も武力侵攻をうったえても、ひたすら黙殺。同時に大宰府の少弐氏ら九州の御家人らに戦争の準備を命令し異国警固番役を設置。
批判する勢力はことごとく取り締まり(二月騒動や日蓮の佐渡配流)、朝廷にもフビライの使者のうったえを拒否するように伝えた。
ついに文永の役という1度目の侵攻、時宗23歳。壱岐対馬の島民は壊滅的被害を受けるが、博多に侵攻すると御家人たちが大いに戦った。九州の菊池武房、竹崎季長、少弐景資らが赤坂の戦いや鳥飼潟の戦いで防戦、撃退。暴風雨により元軍は撤退したらしいが、元軍の戦死者は1万3000、日本軍は5000といわれる。
戦後、さらにフビライの使者が来日するが、時宗はその使者を処刑。
7年後に再び軍事侵攻し弘安の役となる。元軍の船5000・軍勢14万人でこれは世界史上最大規模の艦隊といわれる。日本軍12万は博多湾に石塁という石垣を張り巡らせ、1人も上陸させない戦法をとった。
弘安の役は6月にはじまり、8月に終わる。博多湾上陸を断念した元軍に対し志賀島の戦いや壱岐島の海戦、鷹島沖海戦に日本軍は打って出る。元軍は防戦の最中、7月30日に台風で元軍は壊滅、その被害は9万から13万といわれる。
しかし戦後、北条時宗は3度目の準備や御家人への恩賞問題(ほうびの土地がないうえに賠償を元から獲得したわけじゃない)に苦しむ最中、弘安の役3年後に32歳で死去する。

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(御厨海上合戦・蒙古襲来絵詞より)

もし時宗が執権でなかったら、モンゴルの侵略に毅然と立てず、いたずらに躊躇や譲歩して、モンゴルの1部となっていたのは明らかだろう。

とまあ、とりあえずここまで。




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