邪馬台国の所在
これは長年議論のある話題なのであまり書く気もないのだが一応私見を述べておく。
魏志倭人伝の記述を当て嵌めれば、築後川と矢部川に挟まれた八女市から柳川市あたりの領域を邪馬台国に比定するのがピッタリしていると思う。
その南にあるとされた狗奴国は菊池川下流の平野領域のことではないだろうか。
女王国の範囲というのは築後川や矢部川流域に広がっていた諸地域のことだろう。
投馬国は八女市の北にある三潴に比定したい。
先住民と渡来系住民が共存していた印象が倭人伝から読み取れる。
農耕を豊かに行なっており武器には金属の鏃も使っていた。
顔に入れずみしたりからだに赤い顔料を塗ったり、朝鮮半島の風習とも異なる。
先住民族が渡来文化を半ば受け入れながら生活域を拡大していた印象である。
博多に上陸してから記載に出てくる北九州地名は比定しやすい。これらが女王国に属していると言うのだから女王国はそこからさほど遠くないはずだ。
畿内説はどう考えても無理だ。
九州から畿内へ行く途中ですでに農耕文化が拡大していた瀬戸内海沿岸の四国や吉備などの地域記載が出てこない。大阪か和歌山あたりに上陸しなければならないがその辺りも農耕文化はあったはず。
ただこれは畿内にも邪馬台国同等の文化が育っていたことを否定しない。
日本列島の2〜3世紀にはかなり広範囲に稲作文化は拡張していたから、朝鮮経由で中国の探検隊が九州に来てあれこれ見聞記事を書いて本国に伝えたまでだ。
邪馬台国を正確にどう読むのかはわからないし、それと似たような生活領域が同時期にあちこちあっても何らおかしくないのである。