スタンリー・キューブリックのカット割り
スタンリー・キューブリックについての蓄積された議論を知らないので
すでに議論されていたり、定説とはかけ離れているかも知れませんが了承ください。
今回話題にあげる以下の6本。ネタバレあります。
『2001年宇宙の旅』(1968年)
『時計じかけのオレンジ』(1971年)
『バリー・リンドン』(1975年)
『シャイニング』(1980年)
『フルメタル・ジャケット』(1987年)
『アイズ ワイド シャット』(1999年)
結論
構図に特化した映画からバリー・リンドンを境にして画面内の方向に物語を付与した映画へと変化しているという事。つまりミザンセーヌ全振りからモンタージュとの合わせ技になる。そして特に右往左往する事の様々な側面が主題となっているのではないかということ。
『アイズ ワイド シャット』(1999年)
ひょんなことから『アイズ ワイド シャット』を再鑑賞することになりまして。好きなんだけど正直ストーリーよく分かんないんだよなぁ。なんて思いながら見てたら、最後のシーン。コンテにするとこうですね。
それでもしかしたらと思い冒頭見てみるとこうですね。
つまり全体を簡略化するとこうなります。
以外とわかりやすいんです。
ストーリーが複雑といわれるスタンリー・キューブリック作品ですが、ひょっとしたらシンプルなカット割りで物語を下支えしてるのではないかと考えました。
他作品も気になったので時代を下っていく事にしました。
『フルメタル・ジャケット』(1987年)
カット割りと物語から見ると。
Aパート
1,入隊から右往左往のフラストレーション。
2,そして微笑みのデブが射撃の才能を見出され方向性が定まりそうになる。
3,配属先が決まりこれから殺人ショーが始まるぜって所で教官が撃たれる。
Bパート
4,ピースマーク着けたBORN TO KILLがジョン・ウェインを好きそうなカメラマンらと右往左往。
5,道に迷った先で方向性が決まり画面の上へ進行。
6,そしてベトコン少女がジョン・ウェインかぶれに撃たれる。そしてミッキーマウスマーチ。
「五体満足の幸福感に浸り、除隊ももうすぐ。私はクソ地獄にいる・・・が、こうして生きている。私は恐れはしない」
面白いのが前半と後半が意味的に繰り返しになってるところ。それが意味するところはアンチ戦争映画。映画のセオリーだと右往左往でフラストレーションを溜めた後、才能を見出された人物が活躍する事で視聴者を気持ちよくされる。しかしそんなの現実じゃないと見せつけるのが本作なのかも。
始めてみた時は微笑みのデブがなぜ教官を撃ったのか理解できなかった。いろいろ問題はあったにせよ、一緒に走ってくれて、自分の価値を認めてくれた教官をよりにもよって配属が決まったこれからって時になんでだって思った。それこそ映画のセオリーで盛り上がってたところ水を差された格好になった。
でもカット割りから見ると高揚感への戒めと納得出来る。
『シャイニング』(1980年)
最初の方で3人が会話するシーン
普通はこんな感じカット割りにする。位置関係が分からなくなるので3人の人物の外側からを基本にして内側へはあまり入らない。
シャイニングはこう。
A、B、A、Bと、きていきなりC。ドキッとする。
人物の間にカメラが入ってもいいが、ABABと繰り返すと視聴者は自分の後ろに人がいるようで居心地が悪いし、Cにたいして誰、お前となる。
全体はこの繰り返し。
1内側カット
2外側カット
3縦移動(一人称や見下ろし視点)この視点が没入感を高め内側カットの不快感を強める。
4外側カット
目の回る様なカット割りだが以外にもイマジナリーラインは守られていて、唯一それを破っているのがトイレで服を拭くシーン。そしてそれが最後のシーンへと繋がる。
『2001年宇宙の旅』(1968年)
『時計じかけのオレンジ』(1971年)
構図と音楽、タイミングは素晴らしいがカット割りについて語ることはない。物語に効果するようなモンタージュは採用してないようにみえる。
そうすると気になるのがバリー・ディンドン
『バリー・リンドン』(1975年)
カット割りが物語るかといえばそうとも言えない。
とりあえず右が未来方面で、ターニングポイントでは折り返しがある。物語的カット割りに関しては普通。
絵画的で美しく私は好きだが、本作はそういう意味では中途半端。いい作品だがカルト的では無いということだろうか。
最後に
シャイニング以降の右往左往感はチャップリンのカット割りを思い出す。アイズ ワイド シャットにコメディ感を覚える人がいたが、そこではないだろうか。