放課後城探部 二百十五の城
楽々園の白漆喰の美しい建物は井伊直興と言う人が作らせたという別荘だった。
楽々園は玄宮園とセットで楽々玄宮園とも言われていて彦根城を訪れた後はほとんどセットで玄宮園を訪れる流れになるのが彦根城観覧のお約束と言ってもいいらしい。
そう天護先生が言っていた。
「この楽々園は元は榊御殿と言って現在の玄関口に相当する部分と奥の御書院部分の表の他に奥が置かれていてかなり広い空間を屋敷にしていたわ。下屋敷とも藩主の隠居所とも言われていたから表御殿と性質的に全く異なる趣味性の強い空間が広がっていたみたいね。」
先生はそう言うと御殿の横の開かれた竹柵の入り口に入ると私達を手招く。
竹の柵の奥には趣のある書院にゴツゴツした大石を積み込んでその上に作られた少し大きな茶室っぽい建物とその奥には高床式にした作られた少し小さな建物が置かれていて全てが廊下で連なっていた。
「さっき私達がいた豪華な唐破風で作られた建物が玄関で今私達が目の前にしている建物は御書院、真ん中の建物は地震の間と言う茶室で奥は楽々の間言われているわ。」
「地震の間・・・って怖い名前やなぁ・・・」
訪ちゃんが真ん中の茶室の名前に反応を示す。
確かに、茶室というのに相応しくない不吉な名前だ。
奥の楽々の間というのは今日の楽々園に繋がって分からなくもない。
「なんだか不思議ですね。」
私も訪ちゃんが不思議そうにするのと同じように首を傾げる。
周辺に積まれた岩が地震に被害にあったことを想起させるようなそう言う侘び寂びなのだろうか?
するとあゆみ先輩が
「地震の間は当時にしては珍しい強固な耐震構造を持っている建物なのよ。彦根城は背後が松原内湖で守られている要塞だったけど楽々園は内堀内とは言え地盤の弱い湿地に作られていたの。そこで大石を積み上げて地盤を強固にしてから床材に大きな木材を使って地震に強くして作っているのよ。」
そう丁寧に教えてくれた。
「耐震設計・・・江戸時代でもそんな事考えて作られてたんか・・・凄いことやなあ・・・」
訪ちゃんは地震の間の下に敷き詰められている大石が地震のための対策だったことを知って感激している様子だった。
昔の人は偉い、なんてステレオタイプなことは思わないけど科学の発展した現代と違ってまだまだ病気や自然災害が鬼や悪魔によってもたらされた災厄だと信じていた頃の人達が努力や技術によって災いに抗おうとする姿は私も素直に感動してしまう。
凄く恐ろしい名前の茶室だけど多くの人たちの知恵や技術の決勝だと考えると地震の間はものすごく素晴らしい建築物に思えるのだ。
「私達は現代の技術に絶対の信頼をおいていて、どうしても当時をものすごく劣っているように見てしまいがちだけど昔の人達ももてる知識や技術、研究によって天災と戦っていたのよ。」
先生は地震の間を称賛すると先輩も先生の言葉に頷いて同意した。
「素晴らしい茶室なのですねぇ・・・」
なんだか地震対策を施された茶室を支える大石たちが「うんしょうんしょ」と頑張っている姿が目に浮かぶようだった。