次の朝は他人
今朝のJR中央線、東京行き。
私はシートに座り、前かがみでスマホを見ていた。
新宿駅で、お母さんと女の子が乗ってきた。
黒ワンピースと黒スカート、お母さんのきちんとした低い靴。
顔を見なくても、お受験系とわかる。
小学校受験か? いまの時期なのか?(知らない)
お受験塾の面接か?(わからん)
私の隣の席がひとつしか開いていなかったので、女の子が座る。
前に立ったお母さん、やおら女の子に顔を近づけてささやく。
「4分ってどのくらいか覚えてて」
女の子、こくりとうなづく。
私は心の中で、ワオ、と思う。
外に出ても、あらゆる物事を逃さず、子の学習の機会とするお母さん。
次の駅が近づく。
娘「四ツ谷?」
母「うん。四ツ谷の次はどこか知ってる?」
一瞬、心の中でつまづく私。(えっと、中央線と総武線で違うし…)
女の子は即答する。
娘「知ってる。四ツ谷の次は御茶ノ水」
私(そうか、今、中央線だからそれでいいんか)
母「そう。御茶ノ水の次はどこか知ってる?」
娘「東京」
母「そう」
母親が短いあくびをひとつ。
電車は四ツ谷に到着し、お母さんと女の子は手をつないで降りて行った。
二人とも顔は見なかった。
けれど、髪を二つ結びした女の子の、小さな後頭部のきれいな丸みに、大事に育てられた形跡を感じた。
お母さんは、女の子がゼッペキにならないように、赤ちゃんの頃からタオル地でビーズ入りの赤ちゃん用ドーナツ枕を買い、小さな頭を両手でそっともたげて、時々、首の向きを変えてあげ続けていたんだろうな。
女の子がアナウンサーさんや女優さんや人前に出る仕事になっても困らないように。祖父母親戚や知らんおばさんからやんや言われないように。ママ友との比較もぬかりのないように。
女の子は一生、自分の後頭部をリアルにみることはないだろう。
願わくば、その聡明さと心で、自分のことも、周りの人も、知らない人も、その背後までおもんぱかる人であってほしい。
教育ママゴンというけれど、例えば同じことを、パパが息子さんにしていたらどうだろう。ちょっと見方が違うんじゃないだろうか。パパゴンとまでは言わないんじゃないだろうか。
お母さんにも、いろんな背景、思い、葛藤があるだろう。このまま突っ走るかもしれないし、さらにエスカレートするかもしれないし。つまづいて方向転換するかもしれないし。
二人がつないだ手は、さらにギュッと強固になるかもしれない。
汗でギトギトになるかもしれない。
振りほどいて、ナイフで刺すかもしれない。(比喩)
離れて、他人になる可能性も大いにある。
なんて考えてたら、神田で降りそこなった。
しゃーない、
東京駅で長いエスカレーターを降りて、山手線に乗り換えて、有楽町へ。
映画は、ホン・サンス監督「次の朝は他人」。
朝10時からファンで満席でした。
(Dのナレーション)
俺がウイスキーを飲みたいと言ったので“小説”という店に行った。
A「今日私ね、道で偶然4人と会ったの。
映画の制作者と、映画監督、
映画音楽をやってる人、そして私の教え子。
みんな映画と関係のある人よ。それも20分の間に会ったの」
B「それで?」
A「変でしょ? 私驚いたわ」
C「どこが変だ。偶然だろ?」
A「大したことじゃないけど、とっても変な話でしょ?」
D「変ですね」
A「そうでしょ? 確かに私に何か起こったわけじゃない。
それでも、とってもミステリアスでしょ?」
C「面白い話だね。私にも経験がある。ある人と偶然1日4回会った」
B「そうなんだ。でもなぜこんなことが起こるのかしら?
本当に変な話でしょ? 理由が知りたいわ」
D「理由はないですよ。人生は理由のないことの集合体なんです。
その中から人間が選んで、理由という思考の線(ライン)を作る」
B「思考の線?」
D「ええ、いくつか選び出して、理由という名前を付ける。
例を挙げますね。
私がコップを落として割ったとする。
その瞬間、なぜ腕がこの位置なのか、なぜ体を動かしたのか、
数多くの偶然がそこには作用しているはずです。
しかしみんなは、壊れたコップを惜しんで、
俺がコップを壊したと非難する。
俺が理由だというが、実は俺は理由じゃない」
A「そうね、背後にある偶然は全部数えられないから。
その偶然の背後に、また偶然がある」
D「その通りです。
現実的には適当なところで妥協して折り合うしかない。
でも実際は数多くのことが相互作用をしているんです。
だから私たちが判断した行動は、いつも完全ではないし、
時に的外れになる。その理由がこれだと思います。
おしゃべりが過ぎたようですね」
B「よく考えてるよ。お前も成長したな。俺は見直したよ」
D「そうならうれしいな」
C「俺も昔同じようなことを考えた」
A「私は初めて聞く話だわ。とても新鮮よ。嘘じゃないわ。
監督は頭がいいのね」