見出し画像

街道Jウォーク〜柏原から鳥居本

 江戸五街道の一つである中山道508kmを日本橋から京都三条大橋まで、道端にかすかに残る時代のかけらを拾い集めながらJウォークの旅は続く。

 中山道柏原宿の東に浅井長政の所領境の長比城への登り口がある。この登山道の両側、東には「側溝の水は伊勢湾に流れる」西には「側溝の水は大阪湾に流れる」の立て札がある。両湾とも太平洋につながるので大分水嶺とは呼ばれないが、この登山道に降った雨は微かな勾配によって東西に分かれゆく。東に流れた雨粒は養老山脈の谷を下って三重県の員弁川かあるいは揖斐川辺りを経由して伊勢湾に流れ着くのであろう。さて、西の溝に流された雨粒はどうやって大阪湾までたどり着くのであろうか?そんなことを考えながら西へと歩みを進める。

 醒井宿には、江戸時代の問屋場が見事に残されている。その問屋場と中山道の間には地蔵川が流れている。その水源である居醒の清水は宿場の入り口の加茂神社にあり、伊吹山の雪解け水や雨水が地下に染み込み濾過され、渾々と水が湧き出だしている。その清流は、緻密な鱗を青緑色に輝かせる貴重な淡水魚「ハリヨ」を育み、夏には水中花「梅花藻」が梅に似た可憐な花を咲かせ、今も昔も多くの人々を魅了し続けている。

 居醒の清水にはあの古代日本史の英雄も縁がある。12代景行天皇の命を受け、日本武尊は三種の神器の一つ「草薙の剣」の霊力も借り、苦労の末東国平定に成功する。大和朝廷に帰る途中、尾張の熱田神宮に寄り、既に婚約していた宮簀媛に「草薙の剣」を預け、伊吹山の神の化身である大蛇退治に向かう。しかしその闘いで運悪く毒にやられ病気となり、朦朧となったまま山を下りこの醒井にたどり着く。そしてこの居醒の清水で顔を洗うと、たちまちに意識が醒めたという日本武尊伝説が残っている。

 さて冒頭の疑問についての答えである。東の溝に流れた雨粒は、この地蔵川やあるいはもっと南の野洲川水系に流れ、まず琵琶湖にたどり着く。その後は唯一の琵琶湖から流れ出る川である瀬田川から南下し、京都で名を宇治川と変え、大阪で桂川、木津川と合流し淀川となり、ついに大阪湾にたどり着く。現代においては、もう一つ可能性がある。大津観音寺の琵琶湖疏水によって山科経由で鴨川に至り、京都の伏見で宇治川へ合流するルートである。この地に落ちた一粒の雨水の、繊細で雄大なドラマを想いながら歩みをさらに西へと進める。

 醒井から平坦な道を西に進み番場宿を過ぎるとやがて登り道となり摺針峠となる。曲がりくねった峠を越えてカーブにさしかかると木々の間から、忽然と琵琶湖が目にとびこんでくる。美濃国が完全に頭の片隅から消えゆく瞬間である。峠を下りきるとやがて近江国の鳥居本宿に辿り着く。

今回は、日本列島を東西に分つ地面の傾きを、水と供に感じながら、柏原宿から鳥居本宿まで歩く16kmの旅でした。

いいなと思ったら応援しよう!