『森山大道写真の時間の量と質について』出雲大社でRICOH GRスナップ
久しぶりにRICOH GRで「気分は森山大道」スナップ。
こうも暑いと汗ダラダラで重いカメラを担ぎ山へ景色を撮りに・・・という苦行を楽しめるほど体育会系カメラ男子ではない、GR最高!
片手に収まるエトセトラ!
いざ征かん、出雲大社で森山大道ごっこ
これだけで出雲大社だとわかったあなた!
さては神在月県出身者だな?
さあ、気分はプロヴォーグの森山大道!
盟友中平卓馬が苦悩したプロヴォーグ的手法の消費化、それをスランプを経て乗り越えた森山大道、自らの手法を敢えて演じるというそのスタイルこそが森山大道なのである。
森山大道曰く「量のない質はない」
デジタル化により量への壁が破壊され、むしろその量によって質が淘汰されてしまった現代。
だからこそ、憑依写真芸を愉しむという挙動。
これこそ僕のスナップの流儀である。
森山大道的な記号を量で圧倒することによって、新たな質が生まれると信じて。
森山大道的な眼を持って歩いていると、すべてがドラマチックに見えてくる。
森山大道の森山大道足る所以は、日常への迎合と人間の習性への関心、その先にある違和感である。
非常に人間臭いなんともいえないどうでも良い瞬間を森山大道的な演出で切り抜くことにより、「見慣れた光景を見慣れている自己」への違和感が生じる。
見慣れている光景を見慣れている自分の見慣れていない瞬間、それを切り取る。
今回はフラッシュ撮影多めだが、まさしくその瞬間があるということを強烈な光は教えてくれる。
ちなみにこの写真はプラハではなく出雲である。
その瞬間の時間もまた量である。
静と動、その写真を並べながら見ると、瞬間という言葉が如何に大雑把な区分けなのかがわかる。
静と見える時間、動が見える時間、その「時の量」は先程の違和感の演出となる。
日々眺めている瞬間というのは、その瞬間に適応した時の量で眺めているのだ。
昔若気の至りでバイクでずっこけたことがあるのだが、その瞬間はまったりとしたスローモーションであった・・・と記憶している。
瞬間は出来事と意味により時間が定義されており、それは思い出すことでより明確になる。
思い出の瞬間毎に時の量が違うのである。
「時は来た!それだけだ!」と橋本真也は言ったが、彼の時とは何であるのか、盟友蝶野正洋ですらわかっていなかった。
その瞬間と思い出される時、そして思われる時、時間はとても傲慢である。
森山大道のスナップ写真は、まさにその定義された瞬間としての時を巧妙に外しているのだ。
見慣れた光景への慣れは時間に依存している。
その時間を外す、ずらす、壊す。それがアレブレボケである。
だからこそ、森山大道の撮った見慣れた光景は違和感を醸し出すのである。
人々が「瞬間」と片付ける時間の量を見極め、それを操る。
森山大道のいう量と質は、量により量の中の時間の量という質を見極めよ!ということなのではないだろうか?
写真は時間を操作することができる。
そしてモノクロ写真は、写真の中の時間により比重を置くことができる。
情報量を抑え、時の流れや意識の滞在時間を強く感じることができる。
森山大道的な写真への対峙は、見慣れた光景への懐疑と、慣れの破壊、それは世界を新たな感覚で眺めることであり、だからこそ苦しいのである。
森山大道の視点は、世界を単純化(モノクロ化)し、時の流れを視覚化し、そしてその瞬間を操作しながら眺める。
時間は体感するものであり、決して普遍的ではないのだ。
動画写真集
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