くじゅう連山で写真登山 中判フィルムカメラとFoveonと超広角、そしてビール
1日目:長者原→法華院温泉→大船山→小屋泊
2日目:法華院温泉→すがもり越→久住分かれ→久住山→すがもり越→長者原
写真登山ってなんでしょう?
それは写真がメインの登山。撮影登山とかの方が良さそうだが、写真登山の方がニュアンスが軽いのでそちらが合っていると思う。
ガチガチの山岳写真を撮るんや!という意気込みはなく、かといってただひたすら登山がしたいというわけでもない。
山嶺をバックに星空を撮ったり、早起きして雲海を撮りたいなんて気はさらさらなく、しかしただ登山をするには味気ない。
そういった曖昧さだから写真登山。
camera1:SIGMA fp
lens:SIGMA 20mm F2 DG DN | Contemporary
camera2:SIGMA dp2 Merrill
camera3:PLAUBEL makina 67
film:FUJIFILM PRO400H
しかしカメラだけ見ればガチ仕様、でもね・・・私ただ決められない性格なの。
写真登山に理解のある友人とともに、九州の名峰「くじゅう連山」に参る。
長者原ビジターセンターに到着したのは午前4時、2時間ばかりの仮眠と前日アルコールを摂取していないため、僕は非常に体調が悪かった。
なんせ久しぶりの登山であり、小屋泊とはいえバックパックは肩に食い込む。カメラを置いていこうか迷ったが、しかしいざってときに無かったら、泣いちゃうもんね。
木道を歩き、早速20mm超広角レンズを構える。超広角レンズで山を撮るって憧れていたけど、画角が非常に難しく、試行錯誤しながらの山行もまた良きかな。
Foveon案件、やはり持ってきてよかったdp2 merrill。
Foveonセンサーがなんぞやという方はこちらをご覧あれ。
オジサン世代ならわかってくれよう魔神斬りカメラである。
片手に収まるコンパクトさながら、新緑の葉の朝日に照らされた産毛みたいなのも撮れてしまう。もちろん等価交換で一見さんお断りの使いづらさなのは言うまでもない。
2時間ばかりで坊ガツルに到着である。
ここでプラウベルマキナ67ちゃんの登場である。
国産中判フィルムカメラの雄にして、その出自はとってもファンキーな弁当箱。
そんないわくつきな出自はこちらの記事に譲るとして、結論として今回の写真はほぼ露出オーバー気味なのである。
付属露出計は家庭での孫悟空くらい当てにならず、フィルムは今は亡き期限切れFUJIFILM PRO400Hで、しかも面倒くさがりの極みである僕が撮るのだ。
まあこれもフィルムカメラの楽しさではある。
法華院温泉山荘に着いたら、それはもう「とりあえず生!」でしょう。
なんと山荘で生ビールが飲めるのである。たった700円で飛ぶぞ!
すでにこの写真登山、最高である。なんせ写真登山とは、写真撮ったり山登ったりしてひたすら疲労したあとに飲むビールが主賓だったりするのだ。
いやあ〜こんな贅沢はないね。
山荘で荷物を置かせてもらい、大船山へ登る。
まあ辛い登り、ひたすら登る。見通しが悪く、ただただ辛い。
ただただビール飲みたい。
ああ、呪うかなアルコール漬けの毎日、もう若くもない、疲労は回復量をすぐさま上回り、ただただビール飲みたいが口癖の平日の自分の愚かさよ・・・
歯を食いしばって肝臓を奮い立たせ、大船山頂上へ。
いや〜絶景独り占めである。
dp2でもこれだけ天気が良ければ本領発揮。
RAW現像すればこの描写だ。普段頼りないのに映画版のび太みたいなカメラだ。
ちなみにJPEGだとこれです。
ミヤマキリシマ全盛のときはそれはもうきれいらしいが、それはもうすごいホモサピエンスの群れらしい。
人混みが嫌いすぎるので、シーズン前の静けさを撮りたい。
これも写真登山である。
人はなぜ山に登るのか?
そこに山があるからではなく、そこにある日常と当たり前の生を否定してくれる存在に自らを投げ入れることで、何かしらの意味を盗み取るからである。
山は古代よりそこにあるのである。
こういった消費的登山のおかげで登山道が整備され、山荘は営業し、僕は冷えた生ビールが飲めるのだ。
こんな深奥の山の中ですら、我々には真っ白な地図は残されていないのであり、文明が侵食しているのだ。
その体裁にどう依拠するのか、登山とはまさにそのスタンスの顕在でしかない。
だから僕はビールが飲みたいのである。
脱兎の如く下山、文明に汚染された我が肝臓を恋慕するかの如く呼び続けるビールちゃん。
登山とはなにか?それは登山という非日常という人間本来の日常であった原風景で如何に自らを人間として演じきれるか、それでしかない。
だがその本質を忘れる「演技」がレジャーと呼ばれる。
僕のカメラはそこにはない。
演技をしているという現実に対してどう自らをごまかすのか。
それこそが登山から希釈された現実と対峙する自己の本質なのである。
下山して温泉入って湯上りビール飲んで昼寝してからの晩飯(ご飯お代り可)からのウイスキーしっぽりからの寝る前生ビール、ファンヒーター付き絶景個室にて眠る。
実存は本質に先立つとかのサルトルは言ったが、まさにこれぞ哲学的幸福論である。秘境にて味わう日常の喧騒、これぞ真なるかな。
2日目、最高の朝だったがいきなりの急登で現実が突きつけられる。
岩石まみれの荒涼とした山容を攀じ登る。
生ビールはすでに遠く離れ、軋む筋肉は脳味噌に救難信号をカチューシャばりに撃ちまくる。
すがもり越に近づくと、まさしく死の大地。
火山により形成された、仮面ライダーの決戦ロケ地みたいな雰囲気。
生物の気配すらない延々と続く荒野、しかし結構大きめの野生のウンコが落ちていたので生き物とは逞しいものだなあ。
なんでも圧倒的自然感にぶっ倒されることで、ストレス軽減作用があるらしい。
所詮ちっぽけな存在でしか無い自分を認識することで、日々のストレスが馬鹿らしくなるとか。
たしかに大都会でゴリゴリ働いているとさもありなんである。
当方、ド田舎で日々生きているが、自然に対して尊大な態度というのがまずわからない。
ド田舎では、獣が人家でくつろぎ、集落が森に侵食されている。
特に自然災害激烈な日本人とは、そもそもそんな自然観だったであろうに。
でもそんなド田舎でも、Amazonの商品は1日半で届くようになった。
僕はそっちの方にぶっ倒されるのだが。
またまたごつい登路を越えると、久住分かれにたどり着いた。
途端にツアーガイドの声が響き渡り、久しぶりのホモサピエンスの群れを見ゆ。
やはりこの辺りは登山客が多い。
先程までの自然の圧倒的な存在感はPayPayの支払いくらい簡単に消えてしまい、自分も一登山観光客であることを知り、また登山はレジャーであったのだと再認識する。
あらゆる土地が管理され、道なき道を征くことなど一切できなくなった日本だが、また世界も同じなのであろう。
職場の全く登山に興味のない同僚に、「せっかくの休みにわざわざしんどい思いをして金まで払って山に行くのは何故か?」という問いに何も答えられない。
ジョージ・マロリーの答えは、まさに同じような境地であろう。
今やエベレストも一大観光地である。
ツアー客で混雑する久住山の頂上にて、三俣山を望む。
昨晩の生ビールの残渣も消え失せ、騒がしい頂上でひたすら写真を撮る。
こんなところまで来て稀有な時代遅れのカメラで写真を撮る。
そこにくだらない「俺は違うんだぜ」というニヒリズムが無いことはないが、どこか空虚さに打ちひしがれる。
意味ばかり問う現代社会において、意味のないことをすることで意味を手軽に得ようとするニヒリズムのさらにメタな境地に行くと、やはりすべてが無益なのだ。
登山も写真も無益でしかない。
今や無益なことこそが消費となっている。
それこそ無益である。
しかし、その無限ループのどこかに居場所を見つけられないと、それは不幸とされているのである。
その空虚さを埋める構造は、そもそも空虚さありきの社会に生きているという本末転倒を甘んじて受け入れているのである。
山はしかしそんなことを露知らず、三角点を勝手に打ち付けられても今そこにあるだけなのだ。
三角点から数m先で写真を撮っていたら、鹿のものらしき糞が転がっていた。
そんなことで一気に下山する。
そう、現代社会に帰ってなにかうまいものが食いたい。
山が教えてくれたのは、下界は素晴らしく、そして僕にはまだ足らないものがあるということだ。
ああ、やっぱりズームレンズ欲しい、軽〜い三脚も欲しいな、小屋泊用のバックパックもええな〜、ビール入れれるグロウラーあれば無敵やん!・・・
山は足らないものは教えてくれず、足らないモノは何でも教えてくれる。
そう、山は感傷に浸る場であり、現実への反作用の力を蓄える場であり、日常の黄昏の幸福を甘んじて受けよと叱咤してくれる場なのである。
最後の一枚は帰りがけの三俣山。
一本1000円くらいするのに10枚も撮れないブローニーフィルム、最近は値上げでもっと大変なことに。
写真登山で遭難の次に恐れるのは、この中判フィルムカメラのシャッターを押す瞬間である。
「露出は合っているか?ブレないかな?構図は大丈夫かな?蛇腹は伸ばしたよね?ピント合ってる?」
経済的なプレッシャーにより、快活なひとときであるはずのシャッターを押す瞬間は、生存本能を曲げて息を止め、羞恥心なぞ吐き捨てて自らを三脚と化し、何度確認しても不安を拭いきれない衝動と戦いながら、まさに命がけである。
そんなこんなで無事下山、健やかなる徒労感と文明への渇望、帰れば待ち受ける日常と記憶に残る非日常、構造的欠陥の無限ループのどこかに潜む自らの黄昏のユートピアをかすかに感じつつ、山は去っていくのである。
ほんで冷えたソフトクリームうまっ!!!!!
以上のような酔っ払いながら書いた駄文と写真が散りばめられたnoteです。
YouTubeで写真を載せています。