写真の陰翳礼讃と体感的タイポロジー/石見銀山散歩 Leica M Monochrom(typ246)
世界遺産、石見銀山に毛利軍と同じ経路で至った次第。
でも散歩のメインは大森町、銀山はシンプルに穴だからね。
大森地区は銀山運営の拠点の地、古き良き日本の風景が残されている。
そんなこんなで「高いくせにモノクロしか撮れない」Leica M Monochrom(typ246)と半世紀前のズミクロン50mmで散歩するのであった。
町並みって感じね。
山陰の山奥、観光地ながら生活もありつつ、古い家屋が犇めく往時の繁栄の残り香・・・
おしゃれなカフェやパン屋さんもあります。
そんなこんなで、今回のテーマは陰翳礼讃。
なんせ古き良き日本の風景=陰翳礼讃谷崎先生!と言っておけばええんやろというやっつけ仕事ではない。いや、ちょっと図星であるが。
やはり、古い日本家屋、山間の街並み、瓦と漆喰、夕暮れ時ともなれば、やんわりした光りと陰翳の余韻の緩やかなコントラストの美しさに目を奪われる。
そしてそんな陰翳礼讃が撮れてしまうカメラ、というかそれを撮らないと他に何を撮るんやカメラであるLeica M Monochromを引っ提げているのであるからして、まさに痴人の愛である。
光りというのはその国や文化に影響を与える。
スペインを旅したときのあの強烈なカラッとした光りは、やっぱりピカソやダリを生んだ国だなと思ったし、そりゃあ昼寝したくなるよなと同情したっけ。
北インドの激烈な光り、中国は四川省の山間の霧に差し込む朝日、ヒマラヤの恐ろしいまでの青い空、どれもその場に立ってみてなんとも説得力のある現象であった。
裏日本山陰の光りというのはまさしく日本の陰翳礼讃が求める光りである。
夏はジメッとした光り、冬はどんよりしたかすかな光、それを日本家屋や町並みがコントラストを刻んでいく。
光りを意識して撮ると、写真は変わって見える。
わかりやすい記号ではなく、明暗差が刻む導線。
結局、見る対象である写真において、わかりやすい記号ではない体感からくる「何か」が惹起させるには、よりリアルな体感、記号消費ではないその時その場所での瞬間がまさに体感できなければならない。
故に光りの軌道の上を走る人間の本能的な目の動き、認識のなぞりを擬似的に体感させるような写真、それが「何か」を呼び寄せる・・・と思うわけだ。
記号消費、うまそうなラーメンだなとか、荘厳な山だなとか、きれいな人だなとか、それは写真の情報との遭遇である。
特に意味のない写真は、アートや上手い下手ですらなく見る価値はない。
そもそも価値なぞ求めるものではないかもしれないが、やはり写真は見るという挙動を誘発させるメディアであると仮定すれば、それが価値であろう。
ベッヒャー夫妻のタイポロジーはこの「見る」の挙動を一枚の写真と同じような写真の群れ、ミクロとマクロ的視野の転換でも同質的に並べることで生じる違和感により「見る」をいわば誘発させたわけだ。
眼を引き付ける導線を、一本のなぞり書きではなくサイズの転換の行ったり来たりにより「引き付ける=惹きつける」に変えたわけである。
この遊びから「何か」はやってくる。
この体感的な写真の惹きつける力は、記号消費や雰囲気写真では生じない。
明暗差の光りの導線を仕掛けることにより、どこかそこに佇んでいるような錯覚・・・というより擬似存在を生じさせてしまう力、それも写真なのではないか。
このような「遊び」は、SNSや写真コンテストでは体感できない。やはり写真展や写真集のように、動的な流れが生じる方向性のある展示が必要だろう。
YouTubeで紙芝居的に見るのも良いかなと思っている。
空間的制限のみで自由に体感するのもよいが、時間的制限で流されていくモチーフの残渣が寄り集まった「何か」もあるだろう。
撮影風景の疑似体験、これもまた新しい写真というメディアの「遊び」であると思う。
だからこそ、同じような動画を飽きずに作っているのだが、ベッヒャー夫妻のタイポロジーのように体感的タイポロジーを幻想させる動画の群れというのも面白いんじゃないかなと思うのであった。
ということで、当方のYouTubeチャンネル、おかげさまでチェンネル登録者様1000名超えまして誰が見てんねんと思って調べてみたら・・・
男性100%で咽び泣いています。
いつもありがとうございます(泣)