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SIGMA dp2 merrillで撮る『神社』とグレゴリー・ベイトソン
異端のFoveonセンサーカメラ「SIGMA dp2 merrill」で神社を撮った時の写真。
癖のあるカメラですが、今回もJpeg onlyです。
※note用にリサイズしています
Foveonと神社
石見國 一之宮 物部神社
島根県大田市にあります由緒正しき神社にて、Foveon試写という所業。
これも人間の業であります。
こちらのカメラ、基本的にRAW現像ありきといわれていますが、そうでもないなと思う次第であります。
デジタルカメラが苦手とする明暗差の極端な状況においても、Aモードでパシャっと手持ち撮影にも関わらず、Foveonらしい緻密な描写そのままに見事に写し取っているではありませぬか。
たまに色合いが不自然な時もありますが、地面に落ちた桜の花びらの存在感はたまらんですな。
あと日陰の黒潰れする寸前の立体感を残した光の収縮を掠め取っているのは、まさにこのカメラでしかできない表現だと思っています。
カメラの恣意性とグレゴリー・ベイトソン
やはり、Foveonセンサーはフィルムっぽいですね。
Kodak Ektarのような微粒子感を残しながら、これでもかという緻密さ。
このカメラでしか撮れない写真は、間違いなくありますね。
いつも思っているんですが、そのカメラやレンズでしか撮れない写真というのは必ずあります。
それは、「このカメラ(レンズ)ならこれが合う」と思って撮るという現象が起きるからです。
Foveonのような尖ったカメラは特に顕著で、Foveon案件なんて呼ばれていますが、ギチギチに情報が詰まった風景なんかは任せとけといったような恣意性があります。
もちろんこの恣意性に気付くには、そのカメラの特性を知り、経験を積んでからという前提条件はありますが、その機械に導かれた写真というのは間違いなくあります。
なので僕は最近、常にカメラを3台は持ち歩いています。3つの視点で景色を見ることで、世界はまるで違ってくるからです。
デジタルカメラ、35mmフィルム、中判フィルム。レンズの画角、最短焦点距離、開放と絞り値。カメラの重さ、質感、撮影に要する労力・・・このような条件と特性が自ずと導いてくれる瞬間があります。
だからこそ、同じ景色でも1つのカメラしか使わないこともあれば、3つ全てで撮ってみたいという景色もありますし、そのカメラだけが撮りたがっている景色なんてのもあります。
すべて結局は主観なのですが、こういった機会を生んでくれるというのがカメラであり、カメラという機械を通した自然との接点を間接的に感じ取れるような感覚があるわけです。
グレゴリー・ベイトソンの本を読んでこの感覚が少し理解できました。
事象だけを観察するのではなく、関係性も視野にいれることでわかることがあるんです。
コミュニケーションは関係であり、複雑でかつそれでしか分かち得ないアフォーダンス(環境が動物に対して与える意味)がある。
ということは、人間はカメラを介した自然との接点を感じ取ることができているのだと思ったんですね。
だってカメラを持っているだけで見慣れた景色も変わります。普段なら見向きもしない捨てられた空き缶をわざわざモノクロで撮ったりしませんか?
そこには空き缶からのアフォーダンス、そしてカメラにより変節させられた自己の意志や感覚があるのだと思います。
カメラは、眼鏡や入れ歯や義足や車椅子に近い道具なんです。
眼の延長・・・ではなく、海馬の延長、情報の記憶に影響する延長された感覚器になり得る道具です。
故に、脳から神経が伸びて、カメラにつながり、そこに新たな感覚を感知するものが生まれているという仮説です。
アフォーダンスという自然や物体から訴えかけてくる何かを感じ取っているのが動物ですから、カメラにより延長され変異した感覚器を持つ人間はすべて円環の関係性を持つのだと思います。
動き続ける関係を観たベイトソンは、カメラと写真をどう思っていたのか気になりますね。
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