【短編】「森の中で」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 086
森の中を歩いていたら熊に出会った。
立てば2メートルはゆうに越えるほどのヒグマだった。
私はとうに死んでいるので恐怖もなく、熊は熊で驚く様子もなくこちらをみている。歳を訊けば一五になるという。よく肉のついた毛並みの美しい雄だった。
言葉を失えば意思疎通はできるものだと知り、熊と白樺の森を歩いた。いたるところに「熊出没、注意」と書かれた看板が立っていた。
熊は、もともと自分たちが住んでいた森なのだが。と言って、それきり口をつぐんだが、言いたいことは伝わった。そもそも我々の間に言葉はないのだ。
死んでみて分かったのは、稀に私の姿に気づく人間の大半は恐れを抱く、ということである。私は襲ったりはもとより、驚かす気など微塵もない。ただ、勝手に驚き、恐れを抱くのである。
私は熊にはその話はしなかった。
ただ、そういうところはあるやも知れぬ、と熊に伝えた。
言葉を失った私たちはしばらく森の中を歩き、そして別れた。
熊の踏み潰す乾いた枝葉がみしゃみしゃと音を立て離れていった。
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