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【短編】わすれもの _Simplicity of the world, Complexity of the life. 092
冷たい酸素が肺胞を満たす。勾配のきつい坂道の先にレンガ造の正門が見えた。受験生たちが血液の中を流れる赤血球のようにゆっくりと吸い込まれてゆく。一年前に見た光景と変わらない。また、ここへ来た。二月の乾燥した空気の中を白い吐息が遊泳する。三浪、という言葉は、最初は袖を通すのに躊躇があった。だが、今は着慣れたセーターのように私の身体にフィットしている。後悔はない。 「今年も浪人するの?」「何考えてるんだ」「他の大学じゃだめなのか?」「東大とか京大、じゃないんだよね?」「大変だ
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【短編】「焔書夜」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 091
那津美がそのニュースに触れたのは、ある秋の下校時。電車に揺られながらNHKFMラジオの6時のニュースを聞いている時だった。有線ヘッドフォンから彼女の鼓膜を振動させた音声によれば、先週の日曜日に起きたフランスのとある図書館が全焼した事件、その発火元をフランス当局が調査したところ、それが一冊の本によるものだと特定された、という内容だった。発火元はホルヘ・ルイス・ボルヘスによる著作、『El jardín de senderos que se bifurcan (1941)』であっ
【短編】「モノモライ」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 090
私が診察室でベルトを緩めパンツをすこし下げシャツをめくり上げると、女医は私の下腹部をしばらく凝視したのち、モノモライですね、と早口で言った。 少し押しますよ。痛かったら痛いと言ってください、と言って女医は直径三、四センチメートルほどの突起を押した。私は別段痛くはなかったので痛いとは言わなかった。女医は何かをカルテに書き込んでいたがその筆跡はジャクソンポロックの贋作にしか見えなかった。 もう何院もの病院を渡り歩いたがこの腫瘍なのかデキモノなのかニキビなのか分からないナ
【短編】「夏期講習」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 089
進学塾で弁当を食べている時だった。柚月はひとり黙々と部分的に冷凍食品の混ざった弁当のおかずを箸でつまみ口に運んでいた。隣の席の和樹と春馬が話している会話が耳に入ってきた。和樹の同級生がゴルフの全国大会で優勝した、という内容だった。小四でジュニアのチャンピオンになったんだって。 「そいつ、小さい頃から知ってるんだけど、5歳からずっとゴルフ漬けなんだぜ。親父がずっと教えててさ」 「すげーじゃん」 「毎日、学校終わったらさ、練習場に直行して夜までゴルフ。土日もずっとゴルフで
【短編】「赤信号」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 084
都心のオフィスビルで打ち合わせを終えた私は地下駐車場に停めた自分の車のエンジンをかけた。駐車場のゲートで二千四百円を払うとゲートは槍を掲げた老練な兵隊長のように機敏にバーを跳ね上げた。 地下駐車場から通りに出て右折をすると交差点に差し掛かった。私はカーナビゲーションに誘導されるままに左折し、国道に出た。大きな通りは帰宅する車や運送車で溢れかえっていた。しばらく走ると、信号機が黄色になった。私は黄色になると停止線で車を止めた。急いで黄色で交差点を渡るのは性に合わなかった。