故に明日はパスタを作ろうと思う。
ニヒリズム的な人生観に対する前向きな回答は、目的論的、宗教的な信仰のススメではなく、自分独自の生きがいの中に生きることだと思う。
現代人。目的なんてないのに、最短距離を走っていない自分の人生に焦りを感じる。 無目的。浪費すること、勢いのままにエネルギーを使い果たすこと。 寄り道。思いつき。偶然な体験。それらこそ人生の本質ではないか。
私にとっての本当の「面白い」は私自身からしか生み出せない。
「5年後の自分ならできる、なんて考えない方がいいよ。今できないなら、これからもずっとできないから。」大学の時に先生に言われた言葉。決して腹落ち感があったわけではないし、かなり背伸びした考え方。だけど、いつも何かから逃げたくなる度に、自分を奮い立たせるためには必要な言葉。
仕事の成果で満足を得られることなんてめったにない。人に誇れるような派手なことは少ないし、最初に思ってたのとは違う結論になるし。 だったらプロセスを楽しむしかない。実際に動いてみた中で生まれる偶然や、今後どうなるかわからないという偶有性を味わえるようにならなきゃ、仕事は楽しめない。
不安にさらされたとき以上に、人が愛を生きがいとして感じることはないように思う。
我々は何かについて深く語ろうと思うとき、語る対象に入り込んで詳細に知る必要があると考えてしまう。だが実際、対象を構造的に把握するには他との関係に注目する必要があるから、実は対象自体から距離を取ることが必要だ。そして、その距離に応じて我々が語れることの広がりと独自性が決まってくる。
人は創造的に思考する前提として、正確さや完全さの幻想から自由になる必要がある。気後れせず、でっち上げることをポジティブに受け入れることで創造性を獲得することができる。
読書による学びというのは、内的なパラダイムを更新していく作業。
手を動かすと見えてくるものを作る。それはアートと呼ばれるもの。計画通り、最初に予期したものを作るのは工業らしい。
思考能力を持て余している大人がたくさんいるなぁ、と最近強く感じる。
作品にハマる時。作者の環世界に触れた時。
愛と不在は大きな部分を共有している。私はその対象の不在をもって愛を実感するからだ。また、愛おしいというのは対象の持つ性質ではない。自分と対象が関係を持った時に自分の中に生まれる反応の一種である。
交換価値を生むにはそれを交換する人々の関係性、すなわち市場の創造が先立って必要になる。
問題の中にしか成長はない。では問題とは何か?