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ブレーズ・パスカルは17世紀フランスの哲学者・科学者です。

税務官であり、在野の哲学・科学者でもあった父の影響で、彼は小さい頃から家庭内で素晴らしい教育を受けることができました。10歳未満ですでに、三角形の内角の和が二直角であることを自分で証明。16歳の頃には『円錐曲線試論』という論文にて「パスカルの定理」を発表。18歳になると、父親の仕事を楽にするためにという動機で機械式計算機を設計し、自ら完成させてしまいます *1

早熟の天才とも評されるパスカルは、39歳で夭逝するまで、偉大な業績を残し続けます。

今も「パスカル」という単位として残っている圧力に対する研究。パスカルの三角形に代表される確率論の創始。現在でいう「相乗りバス」のアイディアを着想したのも彼だとされています。

彼が生きた17世紀は、ガリレオやニュートンが活躍した時代です。まさに科学が芽吹いた時期。科学には世界を鮮明に説明する力がありました。
これにより、それまで「神」で解決させてきた様々な事柄が科学によって解決できるようになり、キリスト教に対する信仰の絶対性が揺らいでしまいます。科学の芽吹は、同時にキリスト教的世界観への疑問に繋がったのです。敬虔なカトリック信者であったパスカルは、この風潮に対してキリスト教を擁護する書物を執筆しようとします。この計画は、パスカルの体調の問題もあり生前成就することはありませんでしたが、彼の死後、残されたノートやメモの内容をまとめた著作が出版されました。これが『パンセ』です。

キリスト教の擁護のために書かれた本が、なぜその後、傑出した思想書として、あるいは一つの幸福論として評価されたのか。さっそく『パンセ』の内容について見ていきましょう。

『パンセ』はフランス語で「考えられたこと」や「思考」という意味を持ちます。その名の通り、パスカルは理性について徹底的に考えました。

そもそもパスカルはトップレベルの科学者です。日常的に理性を行使し、それによって世の中に大きな貢献をしてきた彼が最後に辿り着いた結論は「理性を盲信してはいけない」ということでした。

理性は万能ではありません。よく間違えます *2
人間は常に「自分だけは正しい」と思い込み、その思い込みによってあらゆる間違いを犯しています。
パスカルはわたしたちが日常的に犯している勘違いをいくつも挙げます。

例えば社会的行動の動機。わたしたちは自身の社会的な行動の動機にもっともらしい理由をつけたがります。〇〇のために・〇〇だからしょうがない・〇〇が必要だから・・・
パスカルは、人間の社会的行動における動機の根本には「虚栄心」があると考えます *3
誰かに褒められたい、尊敬してほしい、嫌われたくない。
わたしたちは自身の動機を理性的に捉えているように感じていますが、それは大きな勘違いかもしれない。
虚栄心の最たるものは情事です。パスカルは恋愛の原因と結果こそが人間のむなしさを知る一番の材料だと言い「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界は今のようになっていなかったであろう」と皮肉たっぷりの理性批判をしました *4

また、彼は「所有」や「権利」も勘違いであると考えます *5
私たちが「所有している」と感じているあらゆるものは
ある特殊な決まり事の上で「そういうこと」とされているルールでしかない。個人が所有していると思っている物品も、国家が所有していると思っている国土も、厳密な意味では勘違いです。それは「そう決めている」以上のなにものでもない。

そのほかにも人間の理性は法律が普遍的に正しいという極論にはしってしまったり *6
「強いから愛されるべきだ」のように複数の性質を無理やり複合させようとしたりします *7

理性を盲信するということは以上のような勘違いを全て肯定する行為です。パスカルはそれを「危険である」と判断したわけですね。
理性は有用だが、万能ではない。これがパスカルにおける幸福論の一つ目のキーワードです。

パスカルは次に、理性に対する世間の信仰を否定するのと同じ文脈で、人生に対する信仰をも批判します。彼は人生を「変化のとぼしい夢」と捉えます *8

私たちは夢の内容に対して、現実と同じように一喜一憂することはありません。夢で起きたことに対して現実と同じように悩んだり、次に見る夢について不安がったりすることは稀ですよね。
それはなぜかというと、夢が不連続だからです。昨日見た夢と今日見る夢は基本的に繋がっていない。そこに連続性がないということは、夢の世界に未来も過去もないということになりますから、過去に対する後悔や未来に対する不安は存在しえません。夢に連続性があれば、私たちは夢に対して現実と同じように悩むでしょう。
私たちが不連続を感じるとき、そこには急激な変化があります。昨日はアメリカにいた夢を見ていたのに、今日の夢では宇宙にいた。このような急激な変化があるからこそ、人は夢に不連続性を見出す。

しかし、現実にはそこまでの急激な変化はありません。いくらか変化はあるものの、その変化は不連続を想起するようなものではない。ですから、たまに旅などに出て急激な変化を感じた際に「夢みたいな体験である」という感想が出てくるわけですね。そういうふうに考えると、現実と夢には連続/不連続の違いしかないと表現できます。このことからパスカルは「人生は変化のとぼしい夢だ」と言います。
人生は夢のように短く儚い。だとするならば、私たちが人生に対して思い悩むとき、それは「夢の内容に一喜一憂している」のと同じような、ある種の滑稽さが現れていることになります。

人間の理性は「人生」を過度に神聖視することによって自ら人生における苦痛を作り出している。そう表現することもできるかもしれません。

そんな儚い人生は、退屈な繰り返しの人生でもあります。
パスカルに言わせると、人生は「退屈」と「気晴らし」の不毛なシーソーゲームです *9
私たちは「安静」を求めて日々頑張ります。できればのんびりと暮らしたい、責任や労働に追われたくない。しかし、どんなに恵まれた人でも、いざ「何もやらなくて良い」状態になればそれに耐えることができません。何もすることがないということは、人生についてじっくり考えられるということでもあります。しかし、その思考からは苦痛や不安しか引き出されない。だから、実際に「安静」を手に入れた人間は「気晴らし」を求めます。
人が本当に求めているのは、考えすぎて不安になってしまう安静でもなく、戦争の危険や仕事の労苦による激動でもなく、不安や悩みから心を紛らせてくれる適度な忙しさ(気晴らし)なのです。

とはいえ「気晴らし」で得られる快楽(または苦痛の回避)は一時的なものです。その効用はすぐにどこかに行ってしまいます。こうして人間は「安静」と「激動」を行ったり来たりしながら「気晴らし」を追い求めて、延々と繰り返しを生きていくのです。

パスカルは、人生の性質を以上のように分析した結果「そういう生き方で幸福に至ることは不可能である」と結論づけました。

では、人間は絶対に不幸な人生を送る運命にあるのでしょうか。
彼は人生に対するアプローチに関しても詳細な検討を行います。

まず、世俗的な成功を求めるアプローチはどうでしょうか。社会的な成功を収めて、金品をたくさん手に入れ、そうして手に入れたお金で最高の「気晴らし」を実現する。確かに自由に「気晴らし」ができたらそれはそれで幸せそうです。幸福を外的な世界に求める方法とも言えますね。
しかしパスカルは、世俗的なアプローチは真ではないといいます。先ほども触れたとおり「気晴らし」で得られる快は刹那的なものです。そのため、常に「良い状態」でいるためには、延々と刹那的な「気晴らし」を追い求めなければなりません。どんなに成功したとしても、幸福が安定することはなく、いつかは刹那的な快楽の供給が尽き、不幸になります。

では逆に、ストア派の人々が主張するような内的なアプローチはどうでしょうか。これは幸福を内的な世界に求める方法論です。世俗的な快楽を排除し、禁欲的に人生を送り、精神的な意味での幸福を追求する方法。これも十分に有力なアプローチのように思います。
しかしパスカルは、ストア派的なアプローチもダメだといいます。
彼に言わせれば「安静」や「休息」は最大の苦痛です。人はやることがなくなると、自分のことについて考えだしますが、その際に現れる様々な情念に耐えられるようにできていない。稀に内的なアプローチで幸福に達する人(悟った人)がいるかもしれないが普通の人間は、そもそも内的な幸福を重視する生活に絶えることができない。

このようにして、パスカルは「外」と「内」に幸福を求める行為を否定します。もう少し厳密に表現すると「外だけ」「内だけ」に幸福を求めることが間違いだというのです。
その上で彼は「幸福は、われわれの内にも外にもなく、それは神のうち、すなわち、内と外の両方にある」と言います *10

本来、ここでいう神とはキリスト教におけるそれを指すのですが、ここでは「超事物的で無限な存在」と捉えても良いと思います。人間の理性では計り知れない絶対的な存在のことですね。パスカルは、その無限な存在に救いを求めるのです。

『パンセ』の中でも有名な概念に「パスカルの賭け」というものがあります。

パスカルは前提として「理性に神は理解できない」と言います *12
私たちは神の存在や性質を正しく知ることができません。しかし、選択として神を信じることや否定することは可能です。仮に神の存在を信じた場合、期待できる報酬は信仰による幸福です。神が存在しなかったとしても、死ぬまでそのことを認知することはできません。一方で神の存在を信じなかった場合、神が存在しようがしまいがその行為から報酬を得ることはできません。前者はノーリスクハイリターン、後者はノーリスクノーリターンです。
以上のことからパスカルは「理性ではなく、賭けとして神を信仰すべき」と主張します。これが「パスカルの賭け」です。

パスカルは理性と信仰を対立した概念だとは考えませんでした。むしろ両者は互いを補填し合う関係にあり、理性があるからこそ本当の意味での信仰が存在するとしたのです。
だから彼は、理性なき信仰を認めません。先ほどのとおり、理性は人生の虚しさ・苦しさを認識します。信仰は神の認知を擬似的に(賭け的に)可能にする。このとき、理性と信仰の関係を4パターンに分類することができます。

①苦の不認知・神の不認知
②苦の認知・神の不認知
③苦の不認知・神の認知
④苦の認知・神の認知

①は理性も信仰も発揮していない状態です。パスカルはこの状態に関して詳しく言及をしていませんので、あまり人間的ではない状態だと判断していたのかもしれません。

②は理性で以て苦を認知しつつ、神を認めない状態です。彼はこれを「絶望」と呼びました。人生の苦しさにただただ気づいてしまっている状態ですね。

③は理性を働かせることなく神を信仰している状態です。彼はこれを「傲慢」と呼びました。人生に対して向き合うことなく、ただただ神を信仰する。パスカルは、③を真の信仰ではないと考えていたようです。

④は理性でもって苦を認知しつつ、その上で神を信仰している状態です。彼はこの状態を理想としました。むしろ、理性によって人生の苦を直視し、理性の最後の一歩として信仰に至ること。これこそが理性の最大の価値だと考えたのです。

このロジックが端的に現れているのが、有名な「考える葦」です。

少し長いですが、引用します。

ー人間は一本の葦にすぎない。
自然のうちでもっとも弱いものである。
だが、それは考える葦である。
かれをおしつぶすには、全宇宙が武装するにはおよばない。
ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのに十分である。
しかし、宇宙がかれをおしつぶしても、
人間はかれを殺すものよりもいっそう高貴であろう。
なぜなら、かれは自分の死ぬことと
宇宙がかれを超えていることを知っているが
宇宙はそれらのことを何も知らないからである。
そうだとすれば、われわれのあらゆる尊厳は、思考のうちにある。
われわれが立ち上がらなければならないのは、そこからであって
われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。
だから、よく考えるようにつとめよう。
これこそ道徳の本源である *13

パスカルは、人間の理性は素晴らしいものであると考えました。しかし理性は良く間違えるし、万能ではありません。理性だけで以て世界を理解することは原理的に不可能です。理性の究極は、理性を超越したものを認めること。そして、理性を超越したものとは「神」にほかなりません。
だから、理性の最後の一歩が「信仰」だというのですね *14

理性を盲信するでなく、ただ信仰に縋るのではなく、理性を突き詰めた結果信仰に至る道。人間という存在の悲惨さと偉大さを同時に認める姿勢。これこそが地上唯一の救いであろうと、パスカルは考えます。

こうして彼はキリスト教への回心を勧めたわけですが、彼のいう「神」に「理性を超えた存在」を代入すると、無宗教者にとっても価値のある主張だと解釈することが可能です。

ともすれば、私たちは理性を最高のものとし、理性によって善悪を判断し、理性自体を崇めます。しかし、人生における様々な問題を、果たして理性だけで解決することはできるのでしょうか。

ときに、理性を超えた領域があることを理性的に認め、理性が万能だという傲慢を省察する必要があるのかもしれません。

『パンセ』はそんな気づきを与えてくれる天才からの贈り物なのかもしれません



□注釈と引用

*1 ちなみにこの計算機(パスカリーヌ)は当時50台ほど売れたらしい。

*2 パスカルは理性が間違える原因として、特に「想像力」を強調しました。
パンセ(白水社イデー選書)パスカル著 由木康訳 ラフュマ版断章番号83
ーわたしは愚者について語っているのではない。すぐれた知者について語っているのだ。想像力が人々を説得する大きな技能をあらわすのは、かれらのあいだにおいてである。理性はいかにわめいても無益である。理性は事物を評価することができない。

*3 パンセ(白水社イデー選書)パスカル著 由木康訳 ラフュマ版断章番号150
ー虚栄は人間の心に深く錨をおろしているので、兵士も、従卒も、コックも、人足も、それぞれじまんして、自分の称賛者をえようとする。哲学者ですら、おなじことを望む。栄誉に反対する論者も、よく論じたという栄誉をえたいと願う。またそれを読む人も、それを読んだという栄誉をえようと思う。そして、これを書いているわたしも、おそらくおなじ欲望を持っているだろう。またおそらくこれを読む人も・・・

*4 パンセ(白水社イデー選書)パスカル著 由木康訳 ラフュマ版断章番号162
ー人間のむなしさを十分知ろうとするには、恋愛の原因と結果とを考えてみればよい。その原因は<わたしには何かわからないもの>(コルネイユ)である。が、その結果はおそるべきものだ。この<わたしには何かわからないもの>、人が認めることもできないほど小さいことが、全地、王公、軍隊、全世界を動かすのだ。クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、地の全面は変わっていたろう。

*5 パンセ(白水社イデー選書)パスカル著 由木康訳 ラフュマ版断章番号295
ーぼくのもの、きみのもの
「この犬はぼくのものだ」あのかわいい子供らは言った、「そこはぼくが日なたぼっこをする場所だ」。ここに地上における簒奪の始めと写し絵とがある。

パンセ(白水社イデー選書)パスカル著 由木康訳 ラフュマ版断章番号294
ー緯度が三度ちがえばすべての法律がくつがえり、ある子午線が真理を決定し、数年所有しているうちに基本的な法律がかわり、権利にもその期限があり、土星がしし座にはいるとこれこれの犯罪がおこる知らせになるという。おかしな正義よ!川ひとつによって限られるとは!ピレネー山のこちら側では真理であることが、あちら側では誤りなのだ。

*6 パンセ(白水社イデー選書)パスカル著 由木康訳 ラフュマ版断章番号294
ーもし人間の法律のたねをまき散らした無謀な偶然が、普遍的な法律の一つにでも出会っていたら、かれらはたしかにそのことをしつこく主張しえたであろう。だが、おかしなことには、人間の気まぐれはあまりにもまちまちなので、そんな法律は一つもないのだ。

*7 パンセ(白水社イデー選書)パスカル著 由木康訳 ラフュマ版断章番号332
ーそこで、つぎのように言うのは誤りであり、圧制的である。「わたしは美しい。だから、人はわたしを恐れるはずだ。わたしは強い。だから、人はわたしを愛するはずだ。わたしは・・・」おなじく、つぎのように言うのも誤りであり、圧制的である。「かれは強くない。だから、わたしはかれを尊敬しない。かれは有能ではない、だから、わたしはかれを恐れない」

*8 パンセ(白水社イデー選書)パスカル著 由木康訳 ラフュマ版断章番号386
ーもしわれわれが毎夜おなじ夢をみるとしたら、そのことはわれわれが毎昼見ている事物と同様に、われわれに影響をおよぼすであろう。(中略)しかし夢はみなちがっているし、おなじ夢でも変化するので、そのなかでみることは、さめていて見ることほど、人に影響を与えない。これはさめていて見ることに連続性があるからであるが、それもけっしてかわらないというほど連続し平均しているわけではない。旅をしているときのように、急激な変化をたまにしかしないだけのことである。そこで旅をしているときには「なんだか夢でもみているようだ」と人は言う。なぜならば、人生はいくらか変化のとぼしい夢にほかならないからである。

*9 パンセ(白水社イデー選書)パスカル著 由木康訳 ラフュマ版断章番号139
ーそのようにして人生はすぎさる。人はなんらかの障害とたたかいつつ、安静を求める。ところで、障害に打ち勝てば、安静は倦怠を生み出すので、耐え難いものになり、そこから出て、激動を求めずにはいられない。なぜなら、人はげんに感じているみじめさか行く手をおびやかしているみじめさかを思うからである。そして、たとえあらゆる方面において安全を十分保証されたにしても、倦怠が自分勝手に本来それが根ざしている心の底から発生し、その毒素をもって精神を満たさずにはおかないであろう。

*10 パンセ(白水社イデー選書)パスカル著 由木康訳 ラフュマ版断章番号465
ーストア派の人々は言う、「きみたち自身のうちにかえれ、きみたちはそこで平安を見出すであろう」と。しかし、それは真ではない。他の人々は言う、「外にでよ、気ばらしのうちに幸福を求めよ」と。しかし、これも真ではない。病気になることもある。幸福は、われわれの外にも、内にもない。それは神のうち、すなわち、われわれの外と内とにある。

*11 パンセ(白水社イデー選書)パスカル著 由木康訳 ラフュマ版断章番号233
ー「神はあるか、または無いか」(中略)
われわれはどちらの側にかたむくであろうか?理性はここでは何ごとも決定することはできない。理性によれば、きみはどちらに賭けることもできない。理性によれば、二つのうちどちらをすてることもできないのだ。(中略)だが、きみの幸福は?神はあるという表のほうを取って、損得をはかってみよう。二つの場合を見つもってみよう。もし、勝ったら、きみはすべてをえるのだ。負けても、何もうしないはしない。だから、ためらわず神はあるというほうに賭けたまえ。

*12 パスカルが「神が存在するかどうかは人間にはわからない」と言ったと考える人も多いようですが、『パンセ』の中には「神がどういうものであるかを認識することはできないが、神が“ある”ということは認知可能ではないか」という言及(ラフュマ版断章番号233)されている箇所があります。このことから動画では「理性に神は理解できない」と表現させていただきました。

*13 パンセ(白水社イデー選書)パスカル著 由木康訳 ラフュマ版断章番号347

*14 パンセ(白水社イデー選書)パスカル著 由木康訳 ラフュマ版断章番号267
ー理性の最後の一歩は、理性を超えるものが無数にあるということを認めることだ。それを認めるところまでいたりえないとしたら、理性は弱いものにすぎない。自然的な事物が理性を超えているとしたら、超自然的な事物については、なんと言うべきであろう?




□参考文献


パンセ (イデー選書) 由木 康 (翻訳)

パンセ(上下) (岩波文庫)  塩川 徹也 (翻訳)


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