イドラ|ベーコン【君のための哲学#25】
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Mofuwa
☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。
イギリス経験論
近代科学の父とされるガリレオ・ガリレイと同時代に生きたフランシス・ベーコン(1561年-1626年)は、ガリレオに劣らず近代科学に大きな影響を与えた人物である。
彼は科学の方法としての帰納法を提示した。科学的真理には、数学的な「絶対的定理から理性を用いて真理を積み上げていく」という演繹的な方法だけでは辿り着けない。そうではなくて、ありのままの自然を徹底的に観察し、そこから推測できた知識から真理に近づいていく帰納法的な方法を用いなくてはならない。かれはこの主張を「知は力なり」という言葉で表した。
今の時代のわたしたちからすると、一見当たり前のことを主張しているように思えるが、これは当時画期的なパラダイムシフトであった。
それまでの世界ではスコラ哲学をはじめとする「神」を基準にした学問が主流だったから、人間の感性の地位はかなり低く見積もられていた。つまり、何かを突き詰めて研究する際に「感性による観察」を利用するという常識がなかったのである。
ベーコンの主張は、今わたしたちが当たり前のように了解している「観察から結果を導く」という常識を形作る第一歩だったのだ。
かれの主張は哲学の世界にも影響を与えた。「観察」を重視するということは「経験」を優先することでもある。経験とは後天的な外部刺激である。「経験」を重視して哲学を考えるというベクトルは、その後イギリス経験論として発展していく。
イギリス経験論と対立したのが大陸合理論である。ベーコンの少し後に活躍したデカルトは演繹的な真理追求モデル。つまり絶対的な定理から理性によって真理を積み上げていく方法を主張した。そしてかれは「理性」は人間に生得的に備わっているものだと考えた。
両者の立場は100年以上に渡ってぶつかり合い、その後に現れたカントによって、一応の終息を見せることになる。
君のための「イドラ」
ベーコンは科学的な真理追求に際して、人間の先入観や思い込みがノイズになると考え、それらを「イドラ」と呼称した。かれが提示するイドラは4つある。
ベーコンは、科学的方法の運用において気をつけるべき点として4つのイドラを提唱したわけだが、これは私たちの日常にも当てはまる指摘である。
私たちは常に先入観や偏見に侵されている。そして、それらから逃れることは絶対にできない。
そもそも先入観や偏見は人間が生きていく上で欠かせない機能である。
信号が今、青から黄色に変わった。私たちはそれを見て「まもなく信号が赤になる」と判断する。このとき、その判断を下支えしているのは経験による先入観である。これを洞窟のイドラと表現しても、大きく間違ってはいないだろう。実際、信号が黄色の後に赤に変わることは100%保証されたものではない。だからと言って「黄色の次に青になる可能性もあるから、ここはブレーキを踏まずに直進しよう!」などとやっていたら、命がいくらあっても足りない。厳密にいえば、私たちに先入観がなければ、信号の変化すら判断できないのだ。
先入観や偏見は人間の基本機能であるから、それを一切排除することはできない。私たちは常に先入観や偏見によって危険に陥る可能性を抱えている。
しかし「自分には先入観や偏見という機能が備わっている」と心に留めておくことは可能である。そしてその心得は、常に自分の認識に対する内省を生み、認識に対しての傲慢な姿勢を律する基盤となる。
ベーコンが提示した4つのイドラは、私たちがまず思い込むべき大事な先入観の一つである。