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無為自然|老子 【君のための哲学#9】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



無為の治


中国春秋時代の思想家である老子は、道家の思想基盤を作った哲学者であり、道教の始祖とされる神でもある。
当時の中国は戦国七雄がせめぎ合う動乱の時代であり、諸侯に対して政治のアドバイスを行うことで出世を狙う遊説家が多数現れた。(諸子百家)
そんな個性豊かな人士の中で、老子はひときわ特徴的な思想を展開した。

無為自然→いっさいの作為を捨て自然のままに生きること
     自然が絶対であり、知識・技術・富・権力などは無駄

和光同塵→自然に善悪は存在しない
     ただ自然と同化して生きるべきである

万物斉同→全てのものは同一であり、区別などない
     二つものによる対立は全て勘違いである

このような前提のもと、彼は「足るを知る」生活を心がけることを推奨した。それはまた水のような生き方(上善如水)でもある。あらゆるものの役に立っているのに主張せず、どんな器にも柔軟に形を変えて適応し、皆が嫌がる下の方に身を置く性質。このような生き方を実践することが「道」であると考えた。
老子は個人に対する生き方の指針と同じ文脈で、政治においての身の振り方についても言及する。

無為の治→君主はみだりに政治に口出ししてはいけない
     基本的には自然に任せるべきである

小国寡民→小さい国土に少ない国民の共同体が理想である
     自給自足をし、隣国との交流はしない

これは、例えば諸子百家の代表者である孔子の思想などとは真逆のベクトルを持つ主張である。当然、この思想は諸国の王からはあまり好まれなかった。しかし、激動の時代を生きる庶民たちは、彼のこの思想に救いを見たのである。


君のための「無為自然」


老子思想の肝は「絶対的なものとして認識される自然」である。
自然の強大な力、あるいは絶対的な原理と対比すると、人間存在など塵に等しいものだ。人間がそれでも自分たちのルールや認識や区別を重視して生きているのは、彼らの傲慢以外のなにものでもない。そもそもが自然の摂理に反して生きているのだから、その反動としてさまざまな問題が現れるのは当然のことである。だから、人間は自然に従うしかない。独善的なルールを廃し、主観的な認識を脱し、恣意的な区別から離れなければならない。
とはいえ、私たちが生きる社会において老子の思想を体現することは難しい。物理的に難しい部分もあるし、何よりも精神的に困難である。私たちはすでに、資本主義的な価値観にどっぷりと浸かってしまっているからだ。
しかしそれでも、老子の「無為自然」は部分的に私たちの生に役立つ。
人生において、上手くいかないとき・失敗してしまったとき・心が折れそうになったとき・大切な何かを失ったとき。それらを全て「自分の責任である」とか「どうにかできたかもしれない」と考えると、自責の念に押しつぶされそうになる。老子はこのような出来事に対して「それは自然の摂理であって、決してあなたの責任ではない」と言うだろう。摂理(道)は絶対的なもので、人間如きの自由意志でどうなるものでもない。これを極端に解釈すれば「しょうがない」なのだ。
目の前の出来事に対して「しょうがない」と思えたとき、本来そこで現れるはずだった執着やマイナスの感情が緩和される。一般的によくない言葉とされる「自分なんてちっぽけな存在だ」は、捉えようによっては人生を快適に過ごすために有効な解釈なのかもしれない。

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