自然権|ホッブズ【君のための哲学#20】
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Mofuwa
☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。
リヴァイアサン
トマス・ホッブズ(1588年-1679年)はイングランドの哲学者である。彼が活動した17世紀はイングランド動乱の時代だった。ことあるごとに内戦が勃発し、政府はそれに対して適切に機能しているとはいえない状態に陥っていた。そんな時代を生きたホッブズは「強力な国家」の必要性を主張した。
彼はまず国家や社会が存在する前の自然状態を検討する。人間は自然状態において自己保身のために争いを繰り返す生き物である。人間はその根本的な性質として生存欲求を持っている。そのため、自身の生存を実現するために他者への攻撃を厭わない。だから、人間同士が複数で暮らす共同体において(そこに強力な支配者がいなければ)争いを避けることはできない。ホッブズはそう考えた。
しかし、それでは正常な生活が成り立たない。そこで、人間は「社会契約」という仕組みを編み出した。人間同士の争いを抑止し、自分たちの権利を守るために、自らの権利の一部を政府に譲渡して国家を作ること。これが社会契約である。つまり国家というものは、人間同士の果てのない闘争を回避するために(それが意識的かどうかは置いておいて)国民が自らの権利を全面的に国家に譲渡することを選択した結果なのである。
ホッブズはそう考えた上で、国家は出来るだけ強力であるべきだと考えた。常に争いの火種を抱えている人間を抑制し、安定した社会を作り上げるためには、国民同士の争いを確実に止められるような絶対的な権力を国家が持つ必要がある。それはまさに神話上のリヴァイアサンのように。
ホッブズの主張は、その後に力をもつ絶対王政の精神的支柱(言い訳ともいう)になった。
※とはいえ彼の思想は、単純に絶対王政を崇拝するようなものとは言えない。むしろ、彼の政治理論は近代民主主義の土台になったと考える向きもある。
君のための「自然権」
ホッブズの人間に対する性悪説的な捉え方は徹底している。彼は結局こう言ったのだ。
「自分にとって一番避けるべきは他者の暴力による死亡である。だから、それを避けるために社会契約が必要だった」
ホッブズは、人間には自分自身を守るためにあらゆることを行う自由があると考えた。これを自然権と呼ぶ。自然権は、自然状態において、それが自分自身を守るためという合理的な理由がある場合、他者を殺害することまで認める。同時に、自然状態にあっては善悪の基準が想定されていないから、どんなことをしても不正とは言えない。(どんな行為も正当化することができてしまう)この状態は端的にヤバい。まさに世紀末である。だからどうしても社会契約による国家が必要だった。
であるからして、国家は国民の権利の一部を縛り付ける。本来自然権として無限の広がりを持っていた人間の自由を制限する。私たちの社会がそうした交換で成り立っていることは、少なくとも一部において正しいだろう。
この時代、ホッブズ的な自然権の復興を主張する論者はほとんどいないであろう。極端なリバタリアンでも「他者に危害を加えても良い」とは言わない。そういう意味で、ホッブズのいう社会契約は国家という枠を超えて、普遍的な観念として私たちにインストールされ、私たちは彼の時代の”人間”から少しずつ変容しているのかもしれない。
そういう時代だからこそ、彼の想定した自然権という観念は重要なのかもしれない。人間は本来的にとびきり自由だった。自らの危険と引き換えに、何をしても咎められない世界を保持していた。しかし現代では、ある一定の鋳型の中で”自由”的なものが演出されている。もちろん、その鋳型によって安全が実現されているのだから、それを否定するのはお門違いである。だが、鋳型によっては自由が不当に制限されることも当然ありえる。「人間には本来圧倒的な広がりを持つ自由があった」という認識を頭の片隅に留めておくことは、行き過ぎた自由の抑圧に対抗する重要な武器ではないだろうか。