メインチャンネル『フランス革命の省察』の書き出し文
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エドマンド・バークは18世紀に活躍したアイルランド生まれのイギリスの政治思想家です。一般に「保守思想の父」として知られていて、彼の主著である『フランス革命の省察』は保守思想やロマン主義のバイブルとされています *1
バークは29年もの間、イギリスの下院議員を務めました。その間、のちの保守党であるトーリー党ではなく、トーリー党に対立するホイッグ党の幹部を担っていたため、彼を保守主義者ではなく古典的自由主義者に分類する研究もあります。この事実をどういうふうに解釈するかこそが「保守」という定義をどう理解するかに関わる問題なのだと思います。
バークは『フランス革命の省察』にて当の革命を否定しました。当時のイギリスには「フランス革命に追随してイギリスでも革命を起こそう」と考える勢力が多数存在していましたが、バークはホイッグ党の先導役としてこれに対抗。革命フランス軍を軍事力で制圧する対仏戦争を主導しました。彼はフランス革命を否定しましたが、自国で起こった名誉革命に対しては強く賛同をします *2
同じ「革命」に対して、どうして評価が180度変わるのでしょうか。この違いに彼の「保守」に対する解釈のヒントが隠されています。それを確認するために、まずは名誉革命とフランス革命の特徴を見ていきましょう。
名誉革命とは1688年から1689年にかけてイングランドで起こったクーデター事件のことです。
当時の国王ジェームス2世は議会を無視した専制政治やカトリックの復活政策などによってほとんどプロテスタントで構成される議会と敵対していました。
痺れを切らした議会はジェームス2世の長女であるメアリー2世に助けを求めます。メアリー2世はオランダ総督のオラニエ公ウィレム3世に嫁いでおり、これは実質オランダに対する軍事介入の依頼だったと考えられます。オランダから上陸したウィレム3世の軍隊に対して国王ジェームス2世は国外逃亡します。その後、メアリー2世とウィレム3世が共同統治者となり、国民の権利と自由、王権に対する議会の優位などを宣言した「権利宣言」が承認され、「権利の章典」として発布されます *3
これによってイングランド国教会の国教化が確定し、国王の権力が制限され、イギリスにおける議会政治の基礎が築かれました。小規模の戦闘はあったものの、この革命ではほとんど血が流れませんでした。そのことから、この革命を「無血革命」や「名誉革命」と呼びます。
それから約100年後。フランス革命が起こります。
当時のフランスでは国王が国土の1/5を有していました。また、国王の周りで権力を持っていた宮廷貴族たちも非常に多くの領土を保持しており、彼ら大領主は減免税特権の最大の受益者でもありました。そのような状況に伴う「古い体制」はアンシャン・レジームと呼ばれます。
しかし、ルイ16世の時代になると財政が完全に行き詰まってしまいました。一説には日本円で55兆円もの財政赤字に陥っていたとされています。しかし、この後に及んで宮廷貴族たちは自分たちの減免税特権を手放そうとせず、財政難の補填を国民に求めたのです。
これに対して商工業者や金融業者たちは「権力を奪わないと自分たちが破滅してしまう」と考え、国家への反乱を企てました。
1789年7月14日のバスティーユ監獄襲撃に始まる国王軍と群衆の戦いは、群衆に軍配が上がります。8月26日には【人権宣言】が制定され、領主の特権は解体、財政を復活させるための策が打ち出されます *410月6日には群衆がベルサイユ宮殿を襲撃。国王たちを人質に取ったことで、国民議会は絶対的な力を持つようになります。翌年には貴族称号の廃止が決定され、フランスに住むすべての人は【市民】と呼ばれるようになりました。それから3年後に国王ルイ16世とその妻であるマリー・アントワネットが処刑されます。
そしてこの後にナポレオンが台頭するのです。
同じ【革命】であっても、両者には微妙な違いがあります。バークは名誉革命を賛美し、フランス革命を非難しました。そこにはどのようなロジックがあったのでしょうか。
彼はフランス革命に「過剰な暴力と殺戮」と「高貴な人々に対する侮辱と伝統の破壊」があったとし、それらの行為を【非理性的な行い】だと批判しました。
逆説的に、名誉革命においては「過剰な暴力と殺戮」と「高貴な人々に対する侮辱と伝統の破壊」はなかった。そう言いたいわけですね。
一般にフランス革命は啓蒙思想が結実したものだと言われます。啓蒙思想とは、理性の力で非理性的なものを退けようとする、理性による思考の普遍性(不変性)を主張する思想です。しかし、バークに言わせればフランス革命は【非理性的】なものであった。
そもそも彼は啓蒙思想を批判していました。啓蒙主義者は自分の叡智だけを絶対視し、他者の叡智に敬意を払おうとしないとまで言っています *5
啓蒙主義における理性の対義語は【固定観念(先入観)】です。啓蒙主義者たちは、古くから続く固定された常識を打ち破ろうとしたわけですね。しかし、バークは固定観念を悪いものだと見做しません。それどころか、固定観念を「時代を超えて受け継がれた価値判断」とし、その価値判断は個々人の理性よりも信頼に値すると考えます *6
つまり彼は、物事に対する固定観念には、それが固定観念として定着した真っ当な理由があるとするのです。もちろん、すべての固定観念が正しいわけではないですが、個人的な理性による判断と比べると、多くの場合で固定観念の方が正しいと考えるのですね。ここに、バークの【保守】に対する思想の真髄があります。
古代中国の思想家である老子は「大国を治むるは、小鮮を烹るが若くす」と言いました。国家の運営は、小魚を煮るようにゆっくりと行わないといけない。あるいは細かいことには干渉しないで、自然に任せる寛大なものである方がよい。
バークの考えも老子のそれとほとんど同じです *7
彼は「国家の変革は容易に行うべきではない」と考えました。国家を個人と捉えたときに、国家の危機は個人の体調不良と言えます。このとき、私たちは自分に対してどのようなアプローチを行うでしょうか。バークに言わせれば、フランス革命がやったことは「個人の取り替え」です。自分という存在を一旦破壊して、理論的に体調が良いであろう新しい個人に挿げ替える。しかし、おそらく私たちは自分に対するアプローチをそのように選択しません。多くの場合は、生活習慣を見直すなどして”少しずつ”体調不良や病気と向き合うのではないでしょうか *8
国家というものは、何らかの必然性で今”そのような体制”を保持しています。そして、その必然性には何らかの叡智の蓄積がある。国家をまるで新しいものにしてしまうような行為は、その蓄積された叡智に対する裏切りとも捉えられます。それは蓄積された叡智よりも自身の理論の方が絶対に正しいという傲慢だとも言い換えられるかもしれません。そうした新しい理論によって”急激に”国家が変化してしまうと、もしかしたらその変化は国家の滅亡に繋がってしまうかもしれない。だから、国家における歴史を尊重することが国家の繁栄に最も重要なことである。バークはそう考えるのです。
とはいえ、彼は国家が変化することを拒んでいたわけではありません。もし拒んでいるならば、名誉革命に対しても批判を加えるはずですからね。バークは【適切な範囲の変更の原則】が必要だと言います。『フランス革命の省察』の言葉を引用します。
国家の維持には当然変化が必要です。しかし、その変化は国体の根本が揺るがない範囲のものであるべきである。なぜならば、国体の根本とは叡智の結晶であるからだ。
バークにおける【保守】とは理性ではなく伝統を重視して物事を決めていく姿勢を表します。
人間の理性には限界があります。そのため、理性だけで国の進む方向を決定することには危険が伴う。一方で、今の社会を形成するルールや価値観には歴史があります。これらは先人たちが試行錯誤をする中で生まれてきた叡智の結晶であり、それが不完全で非合理なものであったとしても事実、現在も残っていることには自然淘汰という観点で意味があります。故に、理性が不完全な人間は歴史ある伝統の中で生きていかざるを得ないし、そうした生き方の方が消去法的に正しいと言える。
つまりバークは「本当の正しさ」ではなくて「実際に一定期間存続してきた事実」を重視するわけですね。
そしてその「実際に一定期間存続してきた事実」とは社会の核心部分であり、この核心部分すら破壊するような革命を認めることはできないと。
ですから、バークは古い慣習や制度を堅持すべきだと言うわけでもないし、変化の全てを否定するわけでも、革命を拒否するわけでもありませんでした。純粋に国家の永続性を検討した際に、方法論として【温故知新】がベターであろうと考えたのです。
一般に【保守】というとき。そこには「古い国家を信奉する頑固者」や「変化を嫌う事なかれ主義」のような定義が持ち出されることがあるように思います。しかしバークに言わせれば【保守】とは、あくまでも国家の繁栄と国民の幸福を第一に考え「適切な範囲の変更」を求める姿勢なのです。
【保守】の対義語を【革新】だと想定したとき、【革新】とはつまり、【保守】が重要視する「叡智の結晶」を否定し、それを全く新しいものに作り替えようとする姿勢だと解釈できます。
だから【保守】と【革新】の議論において一番重要なのは「適切な範囲」がどこにあるのかという命題です。
何を残して何を変化させるべきなのか。本来語られるべき内容はそこにあるはずなのですが、多くの場合「変わるべきか変わざるべきか」という非常に極端な議論へのすり替えが起こってしまいます。
【保守】も【革新】も、その根底には「国民の幸福」あるいは「国家の繁栄」という”愛”が存在しています。当然、そこに善悪の違いは存在しない。
だからこそ、それぞれの立場における定義を明確にし、議論すべき要点を明瞭にすることが求められるのではないでしょうか。
ちなみに、私個人の思想は【保守】でも【革新】でもないと思っていますし、そもそも【保守】と【革新】のような分類は良くないとも考えています。しかし、すでにそうした観念と対立が存在してしまっている以上、お互いの主張点が明瞭になるよう、定義を明らかにすることが重要です。
本動画が、そうした認識の一助になれば幸いです。
□注釈と引用
*1 ロマン主義とは、それまで一般的であった古典主義・教条主義(理性的かつ完全な美しさを求める姿勢)に反発して生まれた主義主張や表現です。ロマン主義は世界の真理よりも個人の主観を重視し、自我の解放や確立を目指しました。非常に感情的な表現がなされ、自然賛美や恋愛賛美、過去憧憬や民族意識の重用などが特徴。ロマン主義は芸術の世界に広く浸透し、西洋の近代化にも寄与します。その後自然主義や写実主義が現れるまでの主要な潮流でした。
日本においても影響が大きく、森鴎外から始まり樋口一葉や国木田 独歩など、さまざまなロマン主義的作品が生み出されます。これらの流行は自然主義の台頭によって下火になりますが、大正時代にロマン主義が終焉したことを受けて「大正浪漫」という言葉も作られました。
*2 ちなみに、アメリカ独立革命運動に関しても支持をしていた。
*3 正式名称は「臣民の権利と自由を宣言し、かつ、王位の継承を定める法律」
・議会の同意を経ない法律の適用免除・執行停止の禁止。
・議会の同意なき課税、平時の常備軍の禁止。
・議会選挙の自由、議会内の発言の自由、国民の請願権の保障。
・議会を召集すること。
・国民の請願権、議会における議員の免責特権、人身の自由に関する諸規定。
・王位継承者からカトリック教徒を排除すること。
などが定められた。
*4 特に大きな政策は【公債アッシニア】の発行でしょう。(12/2)
教会財産を国有化し、それを担保に紙幣を発行するという離れ業が試みられました。
*5 フランス革命についての省察 エドマンド・バーク(二木麻里訳)光文社古典新訳文庫
第3章 フランス国民議会の実態 「伝統に根ざした先入観は叡智の蓄積である」
ーフランスの文筆家や政治家、そしてイングランドの啓蒙主義者はことごとく、このことについて根本的な思いちがいをしています。かれらは他者の叡智を尊重しません。ところが自分の叡智には全幅の信頼をいだくのです。かれらにとってものごとの古いしくみは、古いというだけでもう十分破壊する動機になってしまいます。いっぽう新しいものについては、いそいで建てた建物がどのくらい長持ちするかなどまったく気にかけません。というのも自分の時代のまえにはなにもなかった、あるいはほとんどなにもなかったと考えていて、新しく発見できるものだけに期待をいだくからです。長続きさせることはめざしていないのです。
*6 フランス革命についての省察 エドマンド・バーク(二木麻里訳)光文社古典新訳文庫
第3章 フランス国民議会の実態 「伝統に根ざした先入観は叡智の蓄積である」
ー緊急のときにも先入観はすぐ動き出します。先入観は精神を、叡智と徳のしっかりした道へと向かわせるのです。そして決断すべき瞬間に人をためらわせたり、疑わせたり、困惑させたりしません。決断しないままにもさせません。先入観があることでその人の徳は習慣になり、その人の義務は本人にとって自然な本性の一部になるのです。
*7 新訳 フランス革命の省察 エドマンド・バーク(佐藤 健志 訳) PHP文庫 P198
ー時間をかけて物事を変えてゆくのは、さまざまな長所を伴う。その一つは、変化が起きているとは思えないほどペースが緩慢な点にほかならない。慎重に用心深く作業を進めるのが賢明であることくらい、大工や職人ですら承知している。
*8 新訳 フランス革命の省察 エドマンド・バーク(佐藤 健志 訳) PHP文庫 P202
ー慢性の病気は、生活習慣を改めることで少しずつ治す。
*9 フランス革命の省察 エドマンド・バーク(佐藤 健志 訳) PHP文庫 P49
□参考文献
[新訳]フランス革命の省察 「保守主義の父」かく語りき PHP文庫 佐藤健志訳
保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで 宇野 重規