葬式とは送る側のためにある
昨年親父が亡くなったばかりですが、今日は父方の叔母の葬儀でした。パワフルで明るく楽しくて、それでいて情があって思いやりがあって。冠婚葬祭くらいしか会う機会なかったけど大好きでした。
親父のアパートを片付けてたら、昔叔母とやりとりした年賀状が何枚も出てきた。自分が生まれる直前、生まれた後、すべての年賀状に自分のことが書かれていた。きっとかっこよくなるね、とか、病気してないかな、とか。昔からそういう人だったんだな。
天国で親父と楽しくやっててください。親父は早く来たから驚いてるだろうけど。
さて、書き留めときたいなと思ったのは葬式のこと。叔母はちゃんと仏式の葬儀でした。読経もあり、初七日もセットでやって。
親父の時は家族葬だったこともあるし、親父が最後に「葬式なんていらない」と言ってたこともあり、とても簡素な式だった。それはそれで満足してたんだけど。今日長いお経を聴きながら思った。このお経を聴いたり焼香したり、この時間って自分が故人と向き合うためのものだなと。
親父の式を考える時も悩まなかったわけではなかった。でもどうしてもお経や戒名が空々しく感じられた。田舎の菩提寺の住職が来るならともかく、いくら宗派が同じとは言え、初対面の坊さんが来てよく分からないお経を上げる。なんか微妙、、、と。
結果、式は5分の打ち合わせでよく語れるな!と引くくらい見事な司会の方のナレーションが長くなり、あとは弔辞と献花、自分が喪主でしたが挨拶の後半は親父への言葉、、、と、そんな感じで30分くらいでした。
今日の告別式は1時間くらいでしたが、お経の間、確かに叔母さんとの思い出、家族のためにも長生きしなきゃなとか、いろいろ考えました。
なんだかんだ言っても薄い接点しかない自分ですら、だから、姉妹や家族は心の整理のために、この時間は必要なのかも、と思いました。
そして改めて考えた。自分の葬式はどんなのがいいかな、、、今のところ、やっぱお経はいらないかな。参列者全員が自分に対して言いたいことを言う、という式も楽しそうだな。