徒然なるまま 0815
戦争とは?ボクたちにその真実はわからない、そうだろ?
8月15日、その日は「終戦記念日」。1945年8月15日、日本が中国に侵攻した1937年から続いた戦争が終わった日だ。
それから77年が経ち、実感はもちろんのこと記憶すら失われつつある。今、ボクたちにとっては「時の彼方のできごと」にすぎない。なぜなら、ボクたちのクニは「平和のクニ」だから。
もちろん、それ以上の幸せはない。
ボクたちは77年をかけて「マンガとゲームのクニ」を築きあげ、今その「文化」を世界に発信している。「死」のリアルがどこにもないバーチャルな世界。安住すれば「リアル」の怖さを消し去ることができる。
素晴らしいことだ。
反面、ここから10,000Km彼方のウクライナでは、戦争が「死」のリアルを撒き散らしている。
戦場のヒロイズムを描く物語はたくさんあるが、戦争がもたらす真実はそのようなものではないだろう。『火垂るの墓』ボクはこの物語に戦争の真実を見た気がする。
「理由のない死」…これこそが、戦争がヒトにもたらす真実だという発見。
終戦記念日、その日の日経電子版に同様の話が掲載されていた。
「大きな物語に投げ込まれてしまった、小さき人々の物語」(日経電子版 2022.08.15)
戦争は、経済や政治という「大きな物語」で始まり、その物語の利害に直接関わらない「小さき人々」に理由のない困難をもたらす。
人びとは都市の破壊や戦死者の数を知るが、「戦車、軍用車両○台破壊という数字の奥に人間がいる」(同)という、兵士を含む現地の人びとのリアルな状況を知ることはない。
戦場では、殺されないために、憎しみのために、恐怖のために、命令を果たすために…破壊が行われ、人が死ぬ。
兵士は殺されるが、兵士ではない人びともまた、そこにいたというだけで殺される。あるいは、戦闘に巻き込まれて殺される。あるいは…、ただ殺される。いずれも「理由のない死」だ。
『火垂るの墓』の清太と節子に、ボクはその姿を見たんだ。
小説はともかく、アニメを観たとき、ボクの子どもたちの姿が清太と節子に被さり、二度と観ることができなかった。そして確信した。これこそが「戦争の真実」なんだと。
…それは、ただただ悲しい姿だったよ。
「過去を忘れてしまう人は悪を生みます。そして悪意以外の何も生みだしません」(『ボタン穴から見た戦争』)という言葉を覚えておこう。
少なくとも自分が言葉通りのことをしないように。
余談だが、「大きな物語に投げ込まれてしまった、小さき人々の物語」という文節は、『戦争は女の顔をしていない』の訳文からの引用だ。
そこで言う「大きな物語」とは、英雄の物語や勝利の物語であることを最後に記しておく。
【参考および引用】
『大きな物語に投げ込まれてしまった、小さき人々の物語』(日経電子版 2022年8月15日)
『火垂るの墓』(野坂昭如/新潮文庫、高畑勲/スタジオジブリ)
『ボタン穴から見た戦争』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/三浦みどり 訳/岩波現代文庫)
『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/三浦みどり 訳/岩波現代文庫)
【日経電子版で紹介されていたそのほかの書籍】
『沖縄の証言 上・下』(名嘉正八郎、谷川健一 編/中公新書)
『独ソ戦』(大木毅/岩波新書)
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