徒然なるまま 1957

来年はきっと綺麗な花が咲く、それを観る者はいないけど

『渚にて』
ネビル・シュート
佐藤龍雄 訳 創元SF文庫 2009年

われらこの終なる集いの地にて…(T.S.エリオット)で始まる人類絶滅の物語だ。生きのびる可能性は「ゼロ」という設定…核戦争がもたらす現実。
もし、物語のようなことが実際起こったとして、ヒトは静かに死んでいける生きものだろうか。

「死」から逃れられないのであれば、やりたい事をやって死のう、これが普通の行動心理だろう。社会には犯罪行為が蔓延し、それを止める手段も崩壊する。なぜなら、止めることに意味がないから。
 人類が消滅するのに、誰のために秩序を維持するのか?「秩序」とはヒトのためにあるものだ。社会を悪意によって崩壊させないために用いるもの、それが秩序という「合意事項」ではないのか。
 それがなくなれば当然、社会全体は無秩序なパニックに陥り、放射性降下物の到達を待たずに死ぬ人も多いだろう。『マッドマックス』の世界だ。

 でも、それを描いてどうするのか。現実の世界を見渡せばそれで充分だ。ヒトの悪意などわざわざ描く価値はない。

 この物語を成立させている必要十分条件は「全滅」ということだろう。死ぬのは自分だけではない、ということが人びとの救いになり、秩序の崩壊を防いでいる。でなければ、描かれている情景はただの宗教倫理だ。あまりに嘘くさい。
 もし、わたしは死ぬがあなたは生きるという状況であれば、「わたし」は生き残る「あなた」を許せるだろうか? 生死の不公平を冷静に受け入れられるだろうか?
 なぜわたしなのか? なぜあなたではないのか?…この疑問が心の中を埋め尽くしてしまうだろう。

 だが、人びとはその疑問を心の奥にしまい込み、今まで通りの日常を生きる。なぜなら、全員死ぬことがわかっているからだ。
「死」を免れないのであれば、それから目を逸らすために淡々と日常を生きよう。人としての尊厳を保って「死」を受け入れよう。それが「世界を滅ぼす生きもの」としての責任であり、知性ある生きものとしての、せめてもの誇りだ。

 まだ「死」が遠い場所にあったときはそれが成り立った。でも、死が身近に迫ってきたとき、しまい込んでいた疑問が心の殻を破って表面化する。
 わたしはいつ死ぬのか? あなたはいつ死ぬのか?
 誰もがひとりで死にたくはない。絶望に耐えた挙句ひとりで死んでいくのは怖い。それではあまりに救いがないではないか。

 この物語は、いわゆる「キューバ危機」の頃に書かれた。それは、核戦争が目前まで迫った時代だ。敵を排除するためであれば、ヒトは平気で核のボタンを押すだろうという確信、そして恐怖が生まれた時代だ。
 「愚かな生きものは静かに死ぬべきだ」と語るこの物語は、おそらくヒトに対する「怒り」の表れだろうと思う。あるいは、一瞬で世界を滅ぼしてしまう「チカラ」を弄ぶ愚かさに対する「諦め」であるのかもしれない。

 夏になるときれいな花が咲く…そのときを迎えることはないことを知りつつユーカリの苗木を植える人びとの営みは、地球の営みでもある。「ヒトが生きた証」と人びとは想いを込めているかもしれないが、地球にとっては「ヒト」という生物種が絶滅したにすぎない。
 ヒトがいなくなっても花は咲くし樹木は育つ。放射能の影響を免れた生物は生きのびる。生命は破壊を超えて再生する、ただそれだけのことだ。

 ヒトは「自滅という可能性」と背中合わせに生きている。いまウクライナで起きていることを見ると、それは決して「自戒のための警鐘」ではないと理解すべきだろう。
 この物語のように、それが「諦め」にならないことを願うばかりだ。


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