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混沌たる世界で、「おかえりなさい」と迎える声  浅川マキの「歌い言葉」

 何やら神様みたいな人が現れて、「これまで参加したライブのどれか一つを、もう一度経験させてやるでぇ」と言ってくれたら、ぼくはずいぶん悩むでしょうが、結局あの夜の浅川マキに会いたいと言うに決まっています。最初からその答えは決まっているのに、体裁として悩んだフリをしただけのような気さえします。

 小さなジャズバーでした。入るとすぐにカウンターが左右に伸びていて、右奥にこぢんまりとしたボックス席があるようなないような。暗くてあまりよく見えませんでした。とにかくまだ空いていたカウンター席に友人と二人で並んで座りました。入り口から少し左側の席です。その奥には小さなステージがしつらえてありますが、ぼくの席からほんの二、三メートル。人が三人立ったら、もう身動きできないような小さなステージです。ぼくの席からステージを見るには、カウンターから身をよじって左後方を見なければなりません。まぁ、イスを回せばいいだけなのですが。

 ドリンクの注文を終え、手元に届いたころには、狭い店内はいっぱいになっていました。30人~40人くらいだったでしょうか。後ろの方はよく見えないのでわかりませんが、ほとんどの人は立ち見です。

 いつの間にか、マキさんはステージにいて、ベースの人と何やらおしゃべりをしていました。ぼそぼそぼそぼそと、声が聞こえます。いつものように右手に火のついたタバコ、左手にウイスキーを持っています。ずいぶん小さなしゃがれ声でした。

 ライブが、いつ始まったのかもわかりませんでした。おしゃべりの声が、少しずつマイクに乗るようになり、おしゃべりに間が生まれ、メロディーがつき、唄うように話していたかと思うと、話すような唄になり、話し相手はベースラインになっていました。

 ゾッとしたのです。客のざわめきも徐々に、マキさんの声に集約されていきます。気がつくと彼女の声とベースラインの他には何も聞こえません。

 ライブの時間って、意外にあれやこれやを考えているものです。どんな曲をやるのかなとか、このライブをどんな言葉で友人と話そうかとか、今の悩み事とか、忘れかけた思い出がぽっかり浮かんできたりとか、楽しんでいるはずなのに時間を持て余したりとか、プレイリストを反芻したり、時にはメモまでしたりして。

 何も考えられなかったのです。ただただ、どこか深いところから足を引っ張るマキさんの声に引きずられて墜ちてゆく感覚と、それに抗い、とにかく息をしたくて水面に顔を出そうともがく自分の意識が、せめぎ合っています。そして、ことごとくマキさんの声に負けるのです。

 あぁ、生きているというのは、こんなにも恐ろしい経験なのだと思いました。一皮むけば予定調和などどこにもなく、見知らぬ暗黒ばかりが周囲にはあるのだと。彼女の声が招くのは、そんな世界の真実でした。ぼくらは何かわかったような顔をして毎日を過ごしていますが、混沌はあらゆるところで口を開けているのだと。

 マキさんの唄は、少しずつおしゃべり色が強くなり、ベースラインも間遠くなります。マキさんは、新しいタバコに火を付けて、ウイスキーを口に含み、誰にともなく話しています。話していますが、その言葉に間が生まれ、メロディーがまといつき、ベースラインが肌をなぶるように走り始めます。

 どのくらいの時間が経ったのでしょうか。マキさんの別れの挨拶を聞いたような気がします。

 帰り道、一緒に行った友人は何もしゃべりませんでした。ぼくも何も話せませんでした。

 マキさんの「唄い言葉」は、ぼくらが薄皮一枚でつながっている世界の常識を、簡単に剥がしてしまう言葉です。キングコングやゴジラが、街の端のアスファルトを握りしめ、ペロッと剥がし、ビルも道路も電信柱もそのアスファルトにくっついて剥がれ、命を失った赤土が剥き出しになるように、ぼくらは彼女の「唄い言葉」の前に、すべてを剥ぎ取られ、赤心を剥き出しにされてしまいます。幾重にもガードしていたぼくの心は、あまりに久しぶりに剥き出しにされ、いったい何をどうすればいいのかもわからず、ただ路頭に迷っています。

 あるいは、彼女は世界に潜む混沌に、ぼくらを招きます。ああすればいいとか、こうしたら上手くいくとかの常識は、何の役にも立たない世界に。

 だからマキさんの歌を聴くのは、とてもコワイ。でも、きっとぼくらには必要な唄声だったと思います。ぼくらは、広い宇宙にたった一人でいることを、たまに思い出す必要がある。そうは思いませんか?

 マキさんは、巫女でした。
 優れた巫女は、言葉でぼくらを誘い、言葉がバラバラにほどけてしまう世界に堕とします。けれど、手助けはしません。世界の無を瞬間、経験させる、それだけです。

 マキさんの「歌い言葉」は、言葉を無化することばでした。

 もう一度あの場に戻れるなら、やはりあのマキさんが招く世界に身を投じたいと思います。



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