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失われていない三十年② 足もとから何かが変わり始めている
んっ? と、引っかかって抜けないトゲのようなフレーズだった。2019年の年末、たまたま耳にした藤井風の「もうええわ」の一節に衝撃を受けた。
「ぬけた 阿呆なゲームいちぬけた」
あ、革命の歌だ。と、思ってしまったのだ。暴力的ではない、新しい革命の歌だ、と。「もうええわ」という曲のなかで、藤井は、世界を覆う資本主義の嵐を、新自由主義の暴力を、グローバリゼーションを「阿呆なゲーム」の一言で切り捨て、それに「付き合ってあげれんでごめんね」とこれまでの世界に対し(軽く)謝罪し、自分らはもうそこから「自由になるわ」と高らかに宣言している、と感じてしまった。
その背負うものの重さや大きさを感じさせない軽やかさ、相手の土俵に登らない戦い方、自分の部屋から世界中の同志に呼びかけるその姿勢……。確かに、ここに新しい革命の火ぶたが切って落とされた。そう思った。それは国家もイズムも必要としない戦い、戦死者の生まれない革命の形、旗を振らない人の歌。
準備は周到になされていた。誰かが、「引きこもりは、とても日本的なテロだ」と言っていたことを思い出す。
彼らは部屋に引きこもることで、世界に「否」を突き付けた。
フリーターと呼ばれて蔑視されながらも、世界と最低限の関わりしか持とうとしなかった。
どれだけ宣伝されても、選挙に参加しなかった。
NISAをやらないなんてバカだと言われても、知らん顔をしてた。
彼ら一人ひとりがこの革命を準備した。
気をつけて周りを見回すと、その予兆は至るところにあったのだ。失われた30年と呼ばれたこの時代は、着実にステップを踏み、新しい時代の下ごしらえをした時代でもあった。それでもまだ「失われた30年」などという人は、どうぞ「肥だめへとダイブ」していただきたい。
藤井風の「もうええわ」は、ここまでくすぶっていた煙に火をつけ、可視化した。ここからは一気である。
Adoの「新時代」は、決してアニメの主題歌にとどまるものではない。多くの人が自分の時代のことだと捉えているだろうし、Ado自身も決してアニソンとして歌っているわけではない。ただリアルに現代を歌っているのだ。この新時代の芽吹きが、実態として見え始めた時代を。
何もかもが一気に変わることはないだろう。しかし確実に、この革命は進行し、旧時代を侵食して世界に広がるだろう。一つの時代が変わるのには二百年かかると言われている。さて、今回の変化にはどれほどの時間がかかるのだろうか。
喫茶店の片隅から発信した藤井風も、クローゼットで録音したAdoも、同時代の多くのミュージシャンも、経済としてのハリウッド的な音楽を無視してスタートしている。ロックが経済行為として確定したあの、Eagles「Hotel California」から、ほぼ50年が経っている。
さぁ、逆襲の始まりだ。