ぼくらは何度も何度も忘れてしまう 藤井風「何なんw」の「歌い言葉」
「何なんw」は「もうええわ」とセットで書こうと思っていました。でも「もうええわ」1曲で字数も増えてしまったので、別にしました。
この2曲に限らずなのですが、藤井風の「歌い言葉」はとてもRadicalです。とても根源的で、根源的であるが故に先鋭的、というニュアンスです。彼は特別なことを歌いません。とても日常的なことを日常的に歌います。彼の代名詞になっている岡山弁も、日常性を裏付けるツールとして使われています。
あんたのその歯にはさがった青さ粉に
ふれるべきか否かで少し悩んでいる
口にしない方がいい真実もあるから
(藤井風「何なんw」 以下も同じ曲から)
極めて日常的です。卑俗と言ってもいいでしょう。でもこの日常性が曲者です。曲の冒頭に入っている舌打ちの音と、上の言葉が日常を示すのであれば、その二つに向き合うのが、
雨の中一人行くあんた
何があってもずっと大好きなのに
どんなときも ここにいるのに
近すぎて 見えなくて ムシされて
の言葉です。このあとも多くの曲で現れる、藤井が言うところの「Higher Self」の登場です。日常のぼくらは、つまんないことに悩んで舌打ちして不快を表明しますが、実はいつも「Higher Self」と共にいると、藤井は言うのです。上のフレーズは、その「Higher Self」の語りかけでしょう。
ともすれば、宗教的、スピリチュアル過剰になってしまう言葉を、彼は岡山弁で日常に定着させます。これが、藤井風の「歌い言葉」の非凡さのひとつです。嫌らしい言い方をすると、彼が宗教を歌っても、それを「宗教」と感じさせない技術です(もちろん宗教が悪いということではありません。ただ、ぼくらの「宗教」アレルギーにはいかんともしがたいものがあります)。そのため彼の「歌い言葉」は、宗教という閉ざされた世界から解放され、普遍性を手にします。
藤井風は、彼の「歌い言葉」を閉じたものにしないために、いろいろな方法を持っています。一つは岡山弁、一つは言葉遊び(「燃えよ」「もう、ええよ」「~してもええよ」は秀逸でしたね)、そして地に足がついた言葉選び、「何なんw」でいえば「肥溜め」のwordチョイスです。
雨の中一人行くあんた
心の中でささやくのよ そっちに行ってはダメと
聞かないフリ続けるあんた
勢いにまかせて 肥溜めへとダイブ
あーっ、と思います。「あーっ、ぼくはこれまで何度『肥溜めへとダイブ』しただろう」と。そう、ぼくらは時に自棄になります。「そっちに行ってはダメと」わかっていても、やっちゃいます。それを「勢いにまかせて 肥溜めへとダイブ」と。そう言われちゃ、ぐうの音も出ねぇ「歌い言葉」です。自分のことなのに、笑ってしまいます。「肥溜めへとダイブ」を、洗練された「歌い言葉」にしてしまうのも、藤井風の「歌い言葉」の力です。
でも、藤井風は、「肥溜めへとダイブ」する人を責めません。彼が歌うのは、
その顔は何なんw
花咲く町の角誓った
あの時の笑顔は何なん
あの時の涙は何じゃったん
あの気持ちよかった瞬間を、思い出させます。あーっ、こういうことも何度もあったのです。「肥溜めへとダイブ」した回数と同じくらい(ダイブ±1回くらい)だと思いますが、確かに何かを認識した瞬間がありました。何かを会得したような瞬間、世界がぼくに優しくしてくれていることを信じられる瞬間、悟りを得たぞぉ~という瞬間、これからは生き直せるぞぉというあの瞬間が、ぼくらの人生にも何度もありました。でも、
あれほど刻んだ後悔も
くり返す毎日の中で かき消されていくのね
真っさらになった決意を胸に
あんたは堂々と また肥溜めへとダイブ
やっちゃいますよね。あれほど心に誓ったのに、すぐに忘れて、また同じ失敗。また「肥溜めへとダイブ」。僕らの人生は、これをぐるぐるぐるぐるくり返します。こうなると、どこで終わるかが、ポイントですね。そこに藤井風のメッセージが現れます。「何なんw」は、
…ワシは言うたが
それならば何なん
何で聞いてくれんかったん
何なん 何なん 何なん
あの時の笑顔は何なん
あの時の涙は何じゃったん
何なん
と終わります。誰もが持っている「あの感動の瞬間」の記憶を忘れないでと、思い出せと、終わります。
そう、ぼくらは、大切なこともすぐに忘れてしまうんです。
藤井風は、自らの「Higher Self」の台詞で終わるわけです。ここには藤井風の「歌い言葉」の魅力と危険性が隣り合わせにあります。
彼の「歌い言葉」の危険性については、そのうちに書かざるを得ないと思っています。