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ごあいさつ 新しいマガジン「歌い言葉」開設にあたって

 「書き言葉」とか「話し言葉」があるように、「歌う言葉があるのかもしれないね」と言ったのは、友部正人さんの唄に接した谷川俊太郎さんだったような気がします。よく覚えてはいないけれど。

 「書き言葉」、「話し言葉」だから、「歌う言葉」ではなく「歌い言葉」ですね。「歌い言葉」、あるいは「唄い」「謡い」「唱い」「詠い」などでもいいかもしれません。そう考えると、日本語には(いや、日本語に限らず、たぶんどの言語にも)、「歌い言葉」(とりあえず「歌」の漢字を当てます)があるんだろうと思います。

 何となくそんなことを考えるようになったのは、中学生のころでした。その頃ぼくは、気に入った歌の詞をノートに書き出していました。なんか格好いいし、女の子と話すときに、何気なく使ったらイケルのではないか。せいぜいそんな下心からだったでしょう。

 ところがノートに書き出した歌詞は、一つも格好良くないのです。その頃興味を持って読んでいた中原中也などの近代詩と比べると、もうまったく言葉が立ち上がってこない。吉田拓郎も高石ともやも岡林信康も(そのころのトレンドは、フォークソングでしたから)、その言葉だけでは、まったく、ぼくの方に向かってこないのです。

 そんな中で、ジャックス、あるいは早川義夫の唄う言葉、高田渡の唄う詩、前述の友部正人の歌詞は、紙の上にあっても存在感があるように思いました。だから、彼らの歌に耳を傾けるようになったのですが、紙の上に書かれた言葉と、彼らの声が発する言葉との間にある、大きな距離を説明することはできませんでした。

 高田渡さんの歌には、現代詩に曲をつけたものがたくさんあります。それを聴いていると、上のようなことがよりはっきりと感じられました。山之口獏さんの詩を読むときと、その詩に曲をつけた渡さんの歌を聴くときとでは、同じではないのです。当たり前といえば当たり前なのですが、同じ言葉なのに連れて行かれる場所が違うというのが不思議でした。ずっとリアルになることもありましたし、逆につまらなく感じることもありました。

 山崎まさよしさんの歌で、「桜木町」という単なる町名が突然立ち上がってきたときにも驚きました。あ、こんなことがあるんだな、と。

 「歌い言葉」。一般性のある話ではありません。あくまで極私的な「歌い言葉」についてまとめてみようと思っています。実は、それは藤井風さんという、とんでもない若い才能の登場に驚いたからです。彼の「歌い言葉」の豊穣さに、ちょっと呆れているからです。こんなにヒット率の高い「歌い言葉」の作り手、使い手はこれまでいなかった。

 彼の「歌い言葉」について書く前に、これまでぼくの聴いてきた「歌い言葉」がどういうものであったか、なぜそこに「歌い言葉」の存在を認めたのかを、少しでも整理しながら進みたいと思っています。

 友部正人さんや高田渡さんの少し前、ジャックス(早川義夫さん)のころから書き始めようかなぁ。そうするとやはり、「ヤング720」の衝撃からかなぁ。


 あ、「歌い言葉」の存在は、長唄や謡、浪曲の世界では当たり前のことだと思います。それに、ぼくがこれまで聴いてきた歌も、今、聴いている歌も狭い範囲です。だから、本当に限られた範囲の話になるでしょう。勘弁してください。

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