現代文の読み方、解き方、教え方② アドバンテージ±ゼロ
どうして、多くの人が(そして多くの国語教師が)、「現代文は、やってもやらなくても点数の変わらない科目」「現代文はできる人はできるし、できない人はできない」と思っているのか?
そこに「生育環境」と「読書量」というキーワードが現れる。いっぱい読んできたから、上質な言葉にあふれた環境で育っているから、というのだ。確かに「生育環境」に恵まれ、高校以前の「読書量」が多い人には、アドバンテージがある。しかし、それは諸刃の剣でもある。
「生育環境」に恵まれ、高校以前の「読書量」が多い人は、自分の読み方、世界に対する自分の見方を(ある程度)持っている。言葉や文章に対して、自分の物差しを持っている。バイアスがかかっているのだ。
小・中学校で学習する国語で扱う文章の中身は、単純で明快だ。教育的価値観に満ちており、世の常識を押しつける。メロスの悩みもカンダタの罪も(教室のなかでは)単純に言語化できる。その路線にいるのが、勉強をしなくても国語のできる人、「生育環境」に恵まれ、高校以前の「読書量」が多い人だ。
ところが、そのアドバンテージがアドバンテージにならない一瞬がやってくる。高校でいえば、2年生から3年生にかけて、時には受験の関ヶ原である第二回全統模試あたりで、点数がガクッと落ちる。本人はビックリするが、たまにはそんなこともあるだろうと、あまり気にしない。その後も、点数が乱高下するが、それでも「自分は本当は国語のできる人」だという信念は崩れない。入試でもいい点を取ることもあるので、それはあながち間違いではない(それは自分の欠点に気づかないまま進学してしまうことでもある)。だが、多くの人が入試で大失敗してしまう。そして言い訳のように「たまたま悪かった」と言う。
そんな人をこれまでどれだけ見たことだろう。
彼らは、「ちゃんと読む」ことが(実は)苦手だ。そこにある言葉をその言葉通りに受け取ることがうまくできないし、うまくできないという自覚を持てない。
読書量の多い人には了解してもらえるだろうが、私たちは文章の未来を予測しながら読んでいる。目は一行めを読んでいるのに、意識は二行め三行めを推測している。つまり自分の読みたいように読んでいるのだ。
また、私たちの単語の把握は、一人ひとりバラバラだ。「赤」という語から色をイメージしてもらうと、その「赤」が一人ひとり違っていて、決して一致しないように。
なのに「生育環境」に恵まれ、高校以前の「読書量」の多い人は、小・中学校で培った「自分の読みが正しい」という妙な自信を持っている。それが色眼鏡、バイアスになり、正確な読みの足を引っ張るのだ。
東大や京大の個別試験対策をしているとき、まず出てくるのは「自分の言葉でまとめていいんですか?」という質問である。
「(「いいわけないだろ!」と心のなかで思いつつ)あなたの言葉はあなただけのもの。標準的な日本語話者に共通に理解できるように書いてください」と答える。
では、どうすればいいのか。「生育環境」に恵まれ、高校以前の「読書量」が多い人が、大学入試に向けた国語(それは大学や社会での学びの基礎となる)で失敗しないためには、どうすればいいのか?
あるいは、「生育環境」に恵まれず、高校以前の「読書量」がほとんどない人は、どう対応すればいいのか?
それについては、次の機会に。