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【鉄道自分史】#5 小学校最初の友だち、そのころのままの優しいみっちゃんとの再会

 写真は2019年12月、小学校2年まで仲良しだったのにクラス替えでその後会うことが無く52年ぶりに再会した同姓の田中三津夫君と鶴橋の韓国料理店で撮ったものです。この再会までの話を書きたいと思います。

 小学校1年の入学時にそれまで住んでいた大阪市西成区から生野区へ引っ越した私は、幼稚園時代の友だち等の知り合いが誰もいないという学校へ入学しました。入学式の日、1年1組から順に長さ2メートルくらいのクラス名簿が張り出されていきました。名簿には右端に縦書きで「1年〇組」と書いてあり、その左に男子から順に50音順で書いてあったようです。母は私の名前を見つけられないようで最後の7組まで見て回ったのに「名前ないなあ。それにしても7組まであるやなんて多いなあ」と言ってました。前の学校では全学年とも3組までだったようです。それでもう1度1組の方へ戻って見直すと「1年1組」と書いてある右側に私の名前が書いてあったのです。「田中」ですから大体男子の真ん中ぐらいにあるはずなので見逃したのでしょう。たぶん入学手続きが遅くこの名簿ができた後に追加で書き込んだのかもしれません。

 入学式の後、始業式まで数日あったのですが母は誰も知った者がいない私を心配して引っ越した家の近くの1年生を見つけては「何組?」と聞いていましたが結局家の周りには同じクラスどころか1年生もほとんどいませんでした。母は心配していましたが私は引っ越したさみしさよりも、どこでもいいから小学校へ行くのが楽しみだったのでしょう。何の不安もなく元気に学校へ行っていました。担任の女の先生も「田中」でした。やはり多い姓とはいえ同じだと親しみがわきます。怒られている子もいましたが、私は勉強も楽しく、いやなことは何もありませんでした。
 入学後しばらく経った頃から、一緒に帰ったり家を行き来したりするような仲良しの友だちができました。それが写真の、やはり同性の田中三津夫君です。三津夫君は優しくて捨て猫を拾ってきては家で飼うのでたくさんの猫がいました。ピーク時産まれた子猫も含め40匹もいたそうです。それを許しておられた御両親もやさしい人で私がいつ行っても温かく迎えてくれました。自分の家のように居心地のいい家だったんだと思います。特に何をして遊んだかは、あまり覚えていませんがうちにはないプラレールがあったように思います。のちに二人とも鉄道好きになっていきますが、プラレールで遊んでいたことが縁の始まりかもわかりません。
 2年生まで一緒のクラスでしたが、3年のクラス替えで三津夫君とは違うクラスになりました。実はそれ以来中学3年まで同じ学校なのに大規模校でしたからか顔を見ることはありませんでした。中学卒業後は進路も全く違い私が大学を出た後は就職で奈良へ引っ越したため、場合に寄ったらもう一生会うことはなかったかもしれません。
 次に接点があったのは中学卒業後22年経っていた1997年のことです。私の父が亡くなった後、しばらく生野区の家にいましたが懐かしくて自転車で家の近くを走っていたのですが気が付いたらみっちゃんの家の近くまで来ていました。そして、せっかくだから寄ってみることにしました。するとお父さんが出てきてくださり、もう別のところにいることが分かり住所と電話番号を教えてくださったのです。そして、来たことを伝えてくださいと言って帰りましたが、急に電話するほどの用事もないし、そのうちしようと思っているうちに、そのままになってしまいました。自転車での移動中にみっちゃんの家の方に向いてたのはやはりよく行ったことがあったのと、その後再会する縁があったのかと思います。
 そして、ついに本当の再会に近づいてきました。2018年のことです。Facebookで小学校5・6年の時の友だちの投稿にみっちゃんがコメントをしていたのです。さっそく友だち申請をしてみました。すぐに承諾され、しばらくはチャットやコメント欄でのやり取りが続いていました。Facebookでの再開後1年ぐらいたった頃でしょうか、みっちゃんから電話がかかってきたのでした。当然のように話が盛り上がり年末に会おうということになりました。ただ、こうして電話をしたり会おうと考えたりすることはその前年ではできませんでした。教員を早期退職して始めた仕事があまりうまくいってなかったからです。それが、仕事場を自宅に移して状況が改善され気持ちに余裕ができてきたから実行できたのです。タイミングも良かったのですね。
 いよいよ2019年12月、実に約52年ぶりの再会です。場所は私の行きつけの鶴橋の電車の見える韓国料理店でした。料理を食べながらビールを片手に52年間のブランクを埋めるべく、一気にいろいろなことを話しました。中学を出てからのこと、仕事のこと、家族のこと、同じ趣味の鉄道のこと、本当に短時間に喋り続けました。そして、中学時代に鉄道好きなことがお互い分かっていれば一緒に撮影に行ったかもしれなあとお互い残念がりました。また、Facebookの投稿からみっちゃんが幼い息子さんを亡くされていたことを何となく知っていましたが、その詳しい話を聞き涙が出そうになりました。みっちゃんの心の中には今この瞬間にもその息子さんがいるんだろうなと思うと切なくなってきました。
 そんな話もしてくれて本当に52年のブランクがあっという間になくなり、小学校からずっと会い続けていたような気持になっていました。食事もビールもいつもと違う格別な味でした。楽しいことも悲しいことも、優しい声でずっと話してくれました。捨て猫を40匹も育てていたあの優しいみっちゃんが、まだそこにいました。韓国料理を食べながらでしたが蒸気機関車や鉄道の話をしていたので、今この写真を見て思い出す匂いは料理ではなく石炭の匂いです。これを書いている2021年2月はコロナ渦の下ですが写真の時期は日本でのコロナ感染拡大の直前でした。
 実は、会おうとどちらかが言い出した時私はすぐに会いたいと思いました。それには、深い理由がありました。1977年、高校の時旅先で出会った中学生だった人とやはりFacebookで30数年ぶりに再会し40年目の夏に本当に会おうと決めていましたが都合が合わず、翌年に持ち越しになりました。しかし、Facebookの投稿も見なくなりどうしたのかと思っていた矢先目にしたのは本人の投稿ではなく誰かが書いた訃報でした。まさかそんなに若く亡くなるとは思ってもみなかったので残念でなりません。ショックでした。そんなことがあり、人生何があるか分からない、命を落とさないまでも会えなくなることがあるかもしれないと思ったからです。実際、あの時会おうと言ってなければコロナ渦でまだ会えていないかもしれません。
 今、元気に再会できたことの喜びを感じ、こうして会ってくれた旧友への感謝の気持ちであふれています。この時は、今後はどこかで鉄活動をしてから呑もうということになり再会を約束しましたがコロナ渦でもあり実現していません。少しでも状況がよくなれば、みっちゃんに会うことはもちろん、しようと思うことは「いつか」ではなくすぐにしていき、大切な人たちとの時間をたくさん持ちたいと思っています。最後にみっちゃんの経歴ですが、大手ポンプ会社から観光バスや路線バスの運転手、そして定年退職後幼稚園バスの運転手をしています。みっちゃんにはぴったりな仕事だと思いませんか。
 

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