歩いて楽しい、食べておいしい、体験して面白い、泊まってテンションUP! いくのの「ご近所ツーリズム」=「らいくのくらし」のコースや内容を紹介するマガジンです! いくのな「日常」は、あなたの「非日常」です。生野に飛び込もう!(^-^)
大学時代神戸電鉄の押部谷に友人がいました。その日は、大学の帰り梅田からふと思い立って電話をしてからその友人宅へ行くことにしました。梅田―宝塚間の定期のまま行ったので乗り越し分を払おうと思いましたが、少し足りませんでした。友人の家は駅の近くだったので、駅員さんに事情を言って友人に電話をして不足分を持ってきてもらうことにしました。 その時の会話です。 私「乗り越し分が足りないので友だちの家に電話をして、持ってきてもらうので待ってもらえますか?」 駅員さん「どっから来たんや?
前回は1980年代の終わりにNECのPC-9801を手に入れ本格的に使いだすところまででした。教員でしたので保護者向きのものも含め全ての文書を「一太郎」というワープロソフトで作成しました。ジャストシステムという会社で現在も一太郎シリーズは発売されています。当時はワープロソフトと言えば「一太郎」でした。同じ会社の「花子」というのも使っていました。そして、学級会計や成績処理はエクセルではなく「1-2-3」(ワンツースリー)という表計算ソフトを使っていました。これをほとんどの人が
私は子どもの頃から無線機やラジオなどに興味があり小学校高学年の頃には兄と一緒に真空管ラジオを集め分解したり、簡単なものを作ったりして楽しんでいました。その後、鉄道に興味を持った頃カメラにも興味を持ちました。大学時代は再び無線に興味が湧きアマチュア無線を始めました。大学卒業後教員になってしばらくした頃、それまで個人では持てなかったコンピュータが、「マイコン」と呼ばれ手に入れることが可能な時代になりました。私が初めてマイコンを買ったのは今から四十年近く前の1985年でした。
写真は1977年4月9日(高校3年)の大阪駅です。この時は福知山線のDD54というディーゼル機関車が牽く客車列車を撮影しに行ったのですが、よく見ると環状線103系と特急「はまかぜ」も写っていました。 「はまかぜ」を見送る二人のお母さんが見えます。一人は子どもを負い紐でおんぶし幼稚園ぐらいの子どもと手をつなぎ、もう一人は前に抱えて列車の中の誰かに見せています。想像ですが春休みに孫の顔を見に来た親を見送ってるような感じです。もしくは高度成長期のこの時期にあったかどうかわかりません
写真は1973年、中学2年の初めごろの私です。家は2階建ての長屋で2階は6畳と3畳の二間でした。兄と時々部屋を交代していました。広いほうがいいと思われるでしょうが、兄が部屋に戻るときや母が物干し台に行くときの通り道になるのがデメリットです。この時は、6畳の方でした。壁の半分は鉄道のボスターや切り抜きを貼っていました。先日NHKの発達障害を扱った番組で鉄道好きの子どもの家の階段や壁も鉄道写真でいっぱいで、この写真を思い出しました。 そして中学時代友だちと言えば鉄道仲間であっ
2022年6月に思い立って中国地方のJR等の未乗車区間乗車と津山まなびの鉄道館・若桜鉄道を訪ねてきました。タイトルを「高校時代以来の鉄道一人旅」としましたが、実際には小学校教員時代に列車で広島方面の修学旅行の下見をしたり、退職前も退職後も東京へ一人で行く機会が数回ありました。しかし、メインの目的が鉄道ではなく、純粋に鉄道だけが目的の一人旅は高校以来でした。 高校時代の鉄道旅は本当に鉄道だけが目的でしかも節約旅行でした。一般の観光地へ行ったり何か名物料理を食べようという気
今から50年前の1972年4月2日入学式前とはいえ、中学生になった私はその年の年玉で買った、3900円のミノルタ16PSというおもちゃの様なカメラで初めて一人で蒸気機関車を撮影に行きました。家から自転車で30分もかからないところにある関西本線の平野駅を湊町発の「D51伊賀号」が通過するということがわかり勇んで出かけたのでした。 湊町発ですが次の停車駅の天王寺発の時刻から平野付近通過の時刻を割り出し何分か前に到着していたのでしょう。全く予備知識もなく、平野へ行ったものの駅に入
「スナックカー」と呼ばれる、近鉄でも一番多く(168両)作られ長く走っていた特急電車が2021年2月12日をもって定期運用を終えました。おそらく近畿・東海エリアの方は一度は見たり乗ったりしたことがあるのではないでしょうか。※製造期間1969年~1976年 運用期間1970年~2021年 大阪環状線のオレンジ色の103系と同じようにいつも走っている当たり前のような存在でした。そして、いつまでも走っているような気もしていました。「いつまでもあると思うななんとやら」と言いますが、
写真は2008年の8月、48歳の時に訪れたオーストラリアのメルボルン郊外を走る観光鉄道「パッフィンビリー」です。左の男性は、私の英語講師だったイアンのお父さんでこの日案内してもらいました。海外留学といってもたった二週間でしたが、いろいろな出来事があり忘れられないものになりました。 実は出足から大きなトラブルがあり目的地のメルボルンへ行くはずが航空会社の発券ミスで着いたところはシドニーでした。私は中学時代から英語は好きでしたが、会話はまだまだでしたのでここからメルボルンへ行
中学1年になった1972年4月から始めた鉄道趣味ですが、中3、高3は中断していました。高校の最後に中学時代からの鉄友と小浜線へ行った後も浪人中は中断していました。中断中もたまには撮影に行っていました。記録では1979年1月の共通一次試験の後にさっそく撮影に行っています。ちなみに、浪人したので共通一次第1期生になりました。 そして、大学はその鉄友と同じ大阪教育大学に決まりました。ここで、趣味が復活すると思いきや私も鉄友もすっかり鉄道への興味が薄れていました。学科が違ったので
写真は2019年12月、小学校2年まで仲良しだったのにクラス替えでその後会うことが無く52年ぶりに再会した同姓の田中三津夫君と鶴橋の韓国料理店で撮ったものです。この再会までの話を書きたいと思います。 小学校1年の入学時にそれまで住んでいた大阪市西成区から生野区へ引っ越した私は、幼稚園時代の友だち等の知り合いが誰もいないという学校へ入学しました。入学式の日、1年1組から順に長さ2メートルくらいのクラス名簿が張り出されていきました。名簿には右端に縦書きで「1年〇組」と書いて
鉄道好きの私は、中学時代蒸気機関車の撮影によく出かけました。いつも大阪から日帰りができるところしか行けませんでしたが、日帰りで行けるところから蒸気機関車がなくなり、中学2年の冬休みに友だちと3人で九州へ3泊4日で撮影に行ったのを最後に高校受験まで活動できませんでした。高校に入った1975年には国鉄の蒸気機関車は北海道に残っていましたが、その年の暮れには国鉄からはすべて廃止されてしまいました。北海道へはいけませんでしたので、そのころから廃止されそうな地方の私鉄や国鉄ローカル線を
#1#2で書いた九州旅行に至るまでのお話です。 鉄道好きだった私は、中学校での友だちは鉄道仲間だけでした。その中でも写真の両側の双子の友人は今でも集まるほど付き合いが長く続いています。 この写真は1973年1月6日、中学1年の冬休み、関西本線月ヶ瀬口で撮ったものです。それまでも友だち同士で「D51伊賀号」に乗って笠置へは行ったことがありますが、本格的に鉄道のダイヤも調べ計画を立てて撮影に出かけたのは初めてでした。一人では行くことのなかった遠くへの撮影も、二人のおかげで何度
1973年12月中学2年の冬休み、友人と3人で訪ねた九州。3泊(車中泊)4日の旅は生涯忘れることができないものとなりました。 前日の北九州、9600が次から次へとやってくる後藤寺線、C57が客車や貨車を引き優雅に走っていた日豊本線(田野・宮崎)。対照的なこの2形式の蒸機をそれぞれ丸一日たっぷりと味わいました。 3日目の朝、降り立ったのは晴れ渡った日豊本線田野でした。そこは広々とした田園地帯をC57が貨物から、客車急行までを牽引する夢のような世界でした。 半日ほど撮影
今年の1月で還暦を迎えた私ですが、1972年4月中学1年から鉄道写真を撮り始めました。途中のブランクもありましたが今年で48年目になります。生まれは大阪で、初めての撮影は自転車で行ける関西本線平野駅付近へ一人で行きました。その次は夏休みに父親に車で行ってもらった奈良駅や三重県伊賀市の柘植駅でした。その後は友だち2~3人でほとんどが関西本線でしたが廃止となる1973年9月まで何度も行きました。47年前の2日前が関西本線周辺の蒸気機関車が最後の日となり雨の中一人で出かけ、午