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LEMON

2035年。コンピュータ入力が脳からの直接入力に移行する中、キーボードによるタイピングは競技としてのみ生き残っていた。その競技の頂点に君臨するのが、梶井基次郎『檸檬』の全文約五千文字を高速入力する「GRAND PRIX LEMON」。静電容量無接点方式の高級キーボードを使う選手たちの中で、安価な青軸メカニカルキーボードで挑む片山カナエ。驚異の速度と正確さで大会を席巻する彼女の秘策とは?

「さあ、『GRAND PRIX LEMON 2035』の最終挑戦者がまもなくスタートします。エントリーNo.86の片山カナエ選手。使用キーボードは……エラコム社製の青軸メカニカルとなってますね」
「メカニカル?静電容量無接点方式の高級キーボードが圧倒的に有利なこのレースにメカニカルキーボードでチャレンジするなんて珍しいですね。メカニカルの参加者もゼロではないですが……、参加者がいたとしても高級キーボードメーカーのファルコあたりが一般的です。エラコムって定価が一万円以下の廉価版メカニカルでしょ? よくグランプリへの参加権を獲得できましたね」
「そうですねぇ。とは言え、文字入力の主流がブレイン・マシン・インターフェイス、いわゆるBMIに置き換わってから高級キーボードメーカーは絶滅しましたからエラコム社のメカニカルキーボードでも流通価格で数万円はするはずです。勿論、上位勢が使うHKKB製やREELFORCE社製のキーボードが今や100万円近くすることを思えば極めて安価なキーボードであることは間違いありませんが。あっ、片山選手がスタートしました! どんな走り、、もといタイピングをするのか見て行きましょう」

 仮想スタジアムの中央に位置する巨大スクリーンに片山カナエが打ち込む文字列が流れていく。
 
〝えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった〝

 コンピュータへ文字を入力する方法が脳からの直接入力に置き換わってから約五年がたった。今やキーボードによるタイピングは競技としてのみ生き残っており、数ある競技レースの中で最も人気が高いのが、今まさに開催中の『GRAND PRIX LEMON』だ。『GRAND PRIX LEMON』は、梶井基次郎『檸檬』の約5000文字を如何に高速に入力するのかを競うもので、全文をミスなく打ち終えるまでのタイムで争われる。

「片山選手、速いですね……しかも全くミスがない。とてもエラコム社製のメカニカルを使っているとは思えませんよ。しかも彼女が使っているのは最も打鍵感が固い青軸メカニカルですからね。柔らかめの赤軸、中間的な茶軸ならいざ知らず、スピード重視のこの競技に青軸を選ぶなんてどうなのかと思っていましたが、結果として凄く速いです。これは参加者100人中、上位3割位には入りそうなペースです」
「青軸とか茶軸とか懐かしいなぁ。20年くらい前の職場にはそういうメカニカル キーボードをわざわざ持ち込んでいる人いましたよね。会社支給のPCに付属するキーボードじゃ気に入らない、俺は業務効率化のためにキーボードに投資するんだとかいうめんどくさい人。そういう人のタイピングって無駄にうるさかったなぁ。絶対、アレわざとデカい音出してましたよ。カチャカチャって感じじゃないですからね。バチッバチッバチッ! ってな感じで」
「そのシリーズの中で一番うるさいのが青軸ですね」
「私の記憶ではさらに固い黒軸ってのもあったような気がしますけど」
「詳しいじゃないですか。でも実は黒軸と青軸の押下圧は共に60cNで一緒なんです。青軸はクリック感があるが黒軸はクリック感がない、というのが相違点です。だからやっぱり一番うるさいのは青軸になります。私は55cNかつクリック感ありの茶軸派でしたけどね」
「あっ、片山選手、難易度の高い中間エリアに突入したようですね。中間計測タイムは……15位!?参加者100名の大半が静電容量無接点方式の高級キーボードを使っていることを考えると、これは大変優秀なタイムです」

〝生活がまだ蝕しばまれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落れた切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった〝
 
 昔ながらのコンピュータ関連デバイスの中で、キーボードは最後まで生き残った。
 最初に無くなったのはモニターだ。2027頃に登場した軽量のMRヘッドセットが世界を席巻したことで、従来型の二次元平面モニターはあっという間に駆逐された。見た目も重量もメガネとさほど変わらないそのMRデバイスを頭に装着すれば、眼前の空間は全てコンピュータの表示エリアに変わった。任意の位置に任意のサイズの仮想モニターを配置できるようになったことで、物理的なモニターの存在意義は無くなった。
 MRヘッドセットが急速に普及した理由には、スマートフォン高性能化の影響もあるだろう。スマートフォンはその登場以来確実な進化を遂げてきたが、画面サイズは必然的に制約されてきた。常に持ち運ぶことが前提のスマホ画面を大きくするには限界があるからだ。だがそこへ登場したMRヘッドセットとの組み合わせは強力だった。最早ひと昔前のスーパーコンピュータに匹敵するほどの計算能力を得たスマホと、空間の全てをディスプレイとするMRヘッドセットを組み合わせることで、デスクトップパソコンも、ノートパソコンも、タブレットさえも不要になった。
 だが、そのような新たなコンピューティング環境が登場したにも関わらず、キーボードだけは中々無くならなかった。勿論、音声入力の技術は向上していた。だが人前で声を発してテキストを入力するのは恥ずかしい。他にも視線入力型のバーチャルキーボードも登場したが、十本の指を同時に使って入力する物理キーボードの入力速度には到底及ばなかった。

 ***

「高難易度エリアに入ってからの片山選手のタイピングはどうでしょうか?」
「低難易度エリアとほぼ同等の速度で進んでますね。片山選手の技量の高さがよくわかります。低難易度エリアというのは車のレースでいう直線区間のようなものです。テクニックが低くても機械の性能が高ければある程度の速度は出せる。しかし高難易度エリアではそうはいきません。カーブが連続するワインディングロードのようにテクニックの高さが重要になる。他の選手たちはここでタイムを落とすのでひょっとしたら次の中間計測地点では……」
「あっ、中間計測地点の順位がでます。なっなんと、順位を9位まで上げてきました!」
「問題はこの後ですね」
「ブラインドエリアですか。ガイド文字列の提示が行われない約千文字の恐怖のエリアですね。ミスがあった後には文字列の提示がされるものの、基本的には記憶に頼って文章を打ち込む必要があります。『檸檬』の中では有名なシーンになりますが、多くの選手はここで大きく速度を落とします。果たして片山選手はどうか?!」

〝その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。〝

 今、片山カナエのMRヘッドセットには単なる暗闇しか表示されていない。タイピングのミスがあれば空中にその一文だけが再表示されるわけだが、カナエは全くの暗闇の中、一文字も間違えることなく打ち進んでいった。
 檸檬の冷たさを表現する文章を打ち、檸檬の匂いを嗅いでカリフォルニアを感じる文章を打ち終えることで、ブラインドエリアをノーミスで軽快に駆け抜けていった。

「片山選手、あっという間にブラインドエリアを通過しました!中間計測のタイムは……、1位です!片山選手、ブラインドエリアを抜けたところでついに1位に躍り出ました! し、信じられません。あの安物のメカニカルが高級キーボード勢を抑えて1位になるなんて。これは一体どういう事なんでしょう?何が起きているんでしょうか?」
「恐らくは……、音ですね」
「音? といいますと?」
「彼女はブラインドエリアの文章を完全暗記するだけじゃなく、それを打った時に生じる音の流れを音楽のように記憶しているのだと思います。ピアニストが楽譜を見ないでも曲を弾きこなすようにね。ひょっとすると…、彼女は打鍵音を最大化したいがために敢えて青軸のメカニカルを採用しているのかもしれません」
「そ、そんなことがあり得るのでしょうか……それが本当だとするともはや魔法ですね。タイピングの魔術師・片山カナエ。彼女はこのブラインドエリアのリードを守り切ってフィニッシュできるのでしょうか!」
「二位との差はゼロコンマ2秒ほど。最後には長いストレート、もとい低難易度エリアがあります。これを守り抜くのは厳しいかもしれません。でも期待しましょう!」

〝「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」
 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。やっとそれはでき上がった。〝

 脳に直接機械を埋め込んでコンピュータを操作するブレイン・マシン・インターフェイス(BMI)が登場したことで、入力デバイスとしてのキーボードは遂に不要になった。BMIはほぼ思考の速度でテキストを入力することができる。実用という観点においては、高速なタイピングをできる能力にもはや意味は無い。だが、『GRAND PRIX LEMON』をリアルタイムで視聴する約1000万人の観客の興奮は、今や最高潮に達していた。

「さあ!タイピングの魔術師が最後のコーナーを曲がりました!」

〝丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉こっぱみじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩どっている京極を下って行った。〝

「果たしてタイムは!?」

 仮想スタジアムの中央に位置する巨大スクリーンが一旦暗くなる。画面中央に現れる「WINNER IS」の文字。

「KANAE KATAYAMA」

 仮想スタジアムの大声援を背景に、アナウンサーは声もさけんばかりに絶叫し続けた。

「やりました! タイピングの魔術師、片山カナエが勝ちました!安物の青軸メカニカルキーボードで並いる高級キーボード勢を抑えて見事に勝利しましたぁ!!! 痛快です! 痛快です! タイピングは金じゃない!そんなことを教えてくれるニューヒーローの誕生です!」

 優勝者の片山カナエには、山のように積み上げられた現金紙幣3000万円とその山頂部分に置かれたレモンエロウの檸檬が贈られた。

(了)

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