『リコリス・リコイル』に不満を抱いたオタクたちに捧ぐ雑記
リコリス・リコイル全13話視聴しました!その感想です!!
久しぶりに地上波アニメを3ヶ月きちんと追いかけたんですが、非常によかったですね。無事完走できて何よりです。
最初に宣言しますが、この記事は 『リコリス・リコイル』が好きで、本作に狂わされた者が何とか本作を肯定して適切に評価しようと試みた文章にしたつもりです。決して安直な作品批判、disりに終始しないよう心がけました。
以下ネタバレを多く含みますので自己責任でお願いします。
『リコリコ』のおすすめポイント
・キャラクターデザインが秀逸
・制服が可愛い
・作画が常にハイクオリティ
・声の演技がめっちゃいい
・メインキャラが魅力的
・構成がしっかりしている
・日常シーンがコミカルで楽しい
・毎回手厚い百合シーンがある
・男男の供給もある
・戦闘シーンが熱い
・武器や戦闘手法が妙に専門的で凝っている
・音響がこだわり抜かれている
・ED曲がいい
これらの要素だけでも『リコリコ』を見る価値は十分過ぎるくらいにある。作画と戦闘シーンだけでも話題になるくらいだし、リコリスの制服のあのなんとも言えない可愛さは世の絵描きたちを放って置かなかった。
毎週のようにTwitterのトレンドを席巻し、pixivのデイリー上位を千束とたきなのイラストが占領していたことは記憶に新しいだろう。
もう何番煎じだよ!って感じになるのであんまり言わないけど同意していること
①総じて設定がガバガバ過ぎる
・日本の治安
・少女が暗殺者をする不自然さ
・DAが無能
・ラジアータ
・ハッカーなら何でもできるのかよ
・真島の生命力
・真島の能力
・吉松シンジ(アラン機関)周辺
・姫蒲関連
・DAの隠蔽工作に疑問を持たない国民
多分『リコリコ』が好きな人も、この辺りについては心の中でツッコミを入れているだろう。それは言わなくてもわかっているので改めて言う必要はなかろう。見ているこっちが気づいているんだから、きっと作っている方も自覚していないわけがない。
②終盤のシリアス展開で設定の緩さ・無理矢理感が目立つ
主に電波塔の外で戦ってたあたりのアクションが多少何でもありっぽくなっており、姫蒲君が超人じみたキャラとして戦い出したのもちょっと面白く感じてしまう。
本来千束の強さが若干マンガじみたチート能力設定なので、序盤のように敵を倒すシーンは圧倒的実力差を見せるかちょっとギャグっぽく描くくらいがちょうどよかった。これに対して終盤は、真島さんの電波ジャックがあり、リリベル登場(主にヒゲのおやじのせい)でさらに雑魚アニメ臭が出できてしまった。
③真島関連
「ていうか真島のせい」である。このキャラを強キャラとして使い回し過ぎたせいでバランスが崩れた。そもそも初登場時から中ボスだと思ったし、途中でやられるキャラの顔をしていると今でも思う。(吉松シンジは1話から出てるんだぞ!)
この真島の小物っぽい感じ、出番の多さ(千束と戦い過ぎ)、理念や主義主張の安っぽさが作品の品位を落としている感じはあると思う。真島と取り巻きのチンピラの絵に描いたような「悪者」感だけはどうにかならなかったかなと思ってしまう。
④百合描写が不足している
「中途半端なシリアスに時間割くならちさたき見せろ!」や「真島さん登場させるよりもっと日常描写が多い方がよかった」などといった意見は多かったが、私もそう思う。
百合アニメっぽい感じのキャラデでオタクを誘い、作品のスパイス程度に用意した自らが設定した世界観の大風呂敷を畳みきれずに爆死していったクソアニメは多い。
その点『リコリコ』はかなり大胆に千束とたきなの関係性に焦点を当てて、丁寧に物語を進めていったように思う。しかしながら、終盤のゴタゴタ具合がなんとなく気になって「ちさたきが不足している」ような印象を受けてしまうのも事実である。(二人が会話しなくとも関係性の矢印を認識できる感性が分水嶺な気がする)
ただ、これらの粗雑さはノイズに過ぎない。上で列挙したような欠点を踏まえても決して『リコリコ』に対しての評価が変わることはない。本題は別のところにある。
消化不良の正体は?
認めたくはないけど、13話まで毎週楽しみに見てきたけで、最後まで見てやっぱり「もにょ」っとした感じが残ってしまった。いやいやいや!私はこの作品に満足してるし、これが見たかったんだ。そう信じていいる。
だけれど、13話を初めて見た時「え?これで終わりなの?」という印象を受けたことには嘘をつけない。確かに目を見張る場面や熱いシーンはたくさんあったが、それとは別に何かがノドの奥に引っかかっている感じがある。
・千束の信念(不殺)について
・千束の心臓に関して
・悪人を殺すことの是非
・吉松の終わり方(千束とたきなとの関わり方)
・バディものとしての千束とたきなの関係性
・井ノ上たきな
・真島を最後まで出し続けたことの意味
・ミカの秘密
・ハッピーエンドだったのか
・なぜ千束はリコリスなのか
・作品のテーマ(正義?百合?)
・制作陣のメッセージ(何を受け取ればよかったのか)
この辺に私のもやもやの正体があって、一応整合的に言語化できたので以下にまとめてみます。
千束の心臓はどこにあったのか
これは明示されてはいないので「絶対にこれが正しい!」とは断言できないけれど、素直に考えると「やっぱり吉松は千束の心臓を自分の胸に埋めており、ミカがシンジを殺して取り出した」のだと思う。そして「ミカはその事実を千束とたきなには秘密にしている」と考えるべきだろう。
理由としては、
①「そこにあるんだろう?」
ミカが銃のスライドを引きながら吉松に対し「そこにあるんだろう?」と言っている。上手側からシンジ、アタッシュケース、ミカと並んでいるのに、近称「ここ」ではなく中称「そこ」と言っていることから、聞き手(シンジ)側に心臓があることをが暗示されている。(シンジとミカの中間にあるケースに入っていれば「ここ」と言ってもよい)
また、このセリフをミカが銃のスライドを引きながら言っている、つまり「吉松を殺さないと手に入れられない場所にある」と考えるのが自然ではないだろうか。
②たきなと千束のセリフ
「あの後、店長が吉松の心臓を持って来たんです。心臓と一緒にそれが入っていたそうです」
つまり、たきなは心臓が最初からケースに入れられていた(吉松には移植されていない)と思っており、千束にそれを移植したのだとを千束に伝えることをためらっていない。
「普通、入れないよね?」
普通に考えれば、自分の身体の中に千束へのプレゼントである人工心臓を入れるわけがないよね?という確認である。そしてシンジの狂言に騙されたことに対しての「やるなーヨシさん」という反応(シンジの死によって自分が生かされたとは思っていない)って解釈でよいと思う。
④「お前が一番怖えからな」
これは唯一千束の心臓がどういう経緯で手に入れられたかを知っているクルミの言葉である。元恋人を殺して心臓を抜き取ったこと、足に障害がある振りをして10年以上も千束を騙し続けていること、本気を出せばいつでも人を殺せる実力があることを知ってしまったが故のセリフである。
DA、ミカ、親、大人
ミカの「シンジは嘘をつかない」の涙は、同時に「いつも嘘をついて人を欺いている自分」への侮蔑でもある。
『リコリコ』の世界では、大人は嘘をつく。DAは国民にリコリスの存在を秘匿し、国民を(父親的温情主義的な理由で)騙し続けている。親は子のために(という理由で)子に嘘をつき、あるいは本当のことを隠している。
現実は時に残酷過ぎるから、「本当のことは知らないほうが幸せ」であり、大人は「優しい嘘」をつくものだ。これが『リコリコ』に一貫して流れるもう一つのテーマである。
こうやって考えると、
DA=『リコリコ』の世界を支配している組織=アニメの制作陣
という風にも考えられる。
いつだって我々がアニメ(子供のために大人が作った嘘)を見るのは、つらい現実から一時的に目を背けるためである。アニメ(嘘)はいつだって優しい世界であり、幸福な時間を提供してくれる。
DAの作り出そうとする「人為的に作り上げられた”平和で安全な国”」という理想は、メタ的な視点から考えると、「クリエイターが作り出す夢のようなアニメの世界」という風にも捉えられる。
「リコリス」とは何か
千束やたきなをはじめとする作中に登場するリコリスは、DAによって訓練・教化され、ひたすら任務をこなす役割を与えられた存在として描かれている。普通に考えて政府が組織した隠密組織のエージェントが10代の女の子ばかりで、みな一様に制服を着用し、銃を持って戦うというのはあまりにも不自然である。
でも、
「リコリス」=深夜アニメにおけるヒロインの少女たち
と考えるとどうだろう?
”平和で安全な国”を支える「リコリス」という存在は、さながら「深夜アニメに登場する美少女たち」と言えるのではないだろうか?
こう考えると、リコリスには親がおらず住所も国籍もない「孤児」であるという設定も、ここ10年くらいの深夜アニメに登場する「親不在」もしくは「親や家族の描写が極端に少ない」キャラクターそのものである。
またDAの命令に従うコマでありながら、毎回使い捨てられるリコリスという少女たちは、どこからともなく毎期ごとに作られては次第に忘れられていく深夜アニメの女の子たちの境遇と近いものを感じてしまう。
「真島」について
ここまで考えると、自然と「真島は?」という疑問が生じる。なぜ吉松シンジではなく真島が最後の最後まで千束の敵として現れたのか?
個人的な考えとして、確かに真島はラスボスとしては微妙である。キャラも能力も思想も中途半端で噛ませ犬のような雰囲気が漂っていると思う。なのにこの真島が最後の最後まで登場し続けた。
10話11話とそこそこ見せ場を作り、たきなの合流で敗北した12話、そして13話にまで出てきた。うんざりするような千束の「何の用?もう終わったでしょ」は我々の声を代弁してくれたかのようであった。
思うに、
真島=深夜アニメにマジレスしてしまうオタク
の暗喩ではないだろうか。
真島は、抽象化して考えると「多くの人間がそれでよいと思っている世界に正義気取りで水を差す存在」である。
より露骨に表現すれば、”明らかにシリアス寄りではない美少女キャラが売りの『リコリコ』というアニメに対して「設定がガバガバ過ぎるwww」「これだけ細部がめちゃくちゃでも百合厨は満足するんだろうな」と突っ込みながらも毎週視聴している面倒なオタク”ということになる。
思い出すと、真島の言葉はリコリスによって作られた嘘の平和を毛嫌いするものであった。
「漂白された除菌された健康的で不健全な嘘の匂いだ」(4話)
「この国だけは平和そのもの。気持ち悪いくらいにな」(10話)
「虚偽と誇張にまみれた平和の押し売り、汚点には蓋をしてしまう」
改めて、
・DA=『リコリコ』の制作陣
・「平和」=みんなが望むもの
・「平和で安全な国」=アニメの世界
・リコリス=オタクアニメの美少女たち
と再定義した上で考えると、真島が目の敵にする「リコリス」と「リコリスによって作り出された不自然な世界」というのは、さながら「深夜アニメに登場する美少女たち」と「美少女キャラが活躍する(彼女たちに都合よく描き変えられた不自然な)深夜アニメの世界」ということになる。
そして真島の主張は「オタク御用達の美少女アニメって気持ち悪い。そしてこんなおかしなアニメを神アニメとして持ち上げている奴らも気に食わない」ってことなのだろう。(なんかこうしてみると、真島のキャラ造形や発言がめちゃくちゃ腑に落ちた)
なるほど。これはいつまでも真島がリコリスに噛みつくわけだ。そしてこの真島を登場させているからこそ(真島の人気はさておき)『リコリス・リコイル』という作品は一段深いレベルのアニメになったんだなと思った。
「お前にはガッカリだ」
これは千束との最後の戦闘で真島が放った言葉だが、終盤『リコリコ』が自分の期待通りの展開にならなかったオタクの捨て台詞にも聞こえる。
また、最後の戦闘で真島は千束に真剣に向き合ってもらえないのも印象的だ。千束は爆弾のタイマーを止める(延空木と街を守る)のを優先して真島を相手にしない。(直前の「世界を好みの形に変えてる間におじいさんになっちゃうぞ」は、既に「老害」になってしまっているオタクに対する皮肉でもあるだろう。)
設定や世界観が甘いことに自覚的である説
(ここがこの記事のハイライトです。)
各種媒体の監督や脚本担当のインタビュー記事を読んだりラジオの発言を踏まえると、初期段階から『リコリコ』の細部の設定がめっちゃ丁寧に練られているなと感じる。
例えば、千束がC.A.Rシステムという撃ち方をするに至った理由とか、とにかく考え抜かれて導き出された答えである可能性が高い。
つまり制作陣が「そんなツッコミがくることは予想できているのにあえてそうしている」んじゃないかと思えてくる。(そうでなければ真島があんなに活躍しているのはおかしいだろ)
面白いのが、私が13話視聴後、まだこの終わり方を消化できずに咀嚼している間に、既にTwitter上では最終話を礼賛する声がタイムラインを席巻していたことだ。
「とりあえず千束が死なずにハッピーエンドでよかった」
「色々と言いたいことはあるけど、最後のちさたきで全部どうでもよくなった」
「最終話めっちゃよかった」
「リコリコは神アニメ」
『リコリコ』のファンである私でさえ、終盤の展開や最終話についてはちょっと考えさせてほしいと思っていたところに、「そんな些細なことはどうでもいい」と言わんばかりの絶賛の嵐。
ただ、一部の人には枕詞のように「設定がガバガバな部分はあったけど」とか「ツッコミどころは多かったけど」みたいな一言が添えられていたのを眺めてようやく理解した。
「これがDAの、ラジアータの隠蔽工作か…!」
もうハッピーエンドが見られたのだから、そんな細かいことはどうでもいいじゃないか。(世界がどうとか知らんわ)だって千束とたきなが幸せに暮らせる結末を望んだのは私たちなのだから。
「虚偽と誇張にまみれた平和の押し売り、汚点には蓋をしてしまう」
DAの隠蔽工作が杜撰であっても「平和」を望む愚民たちはそこに平和があると信じるのと同じように、アニメの設定や細部の詰めが甘くとも「ハッピーエンド」や「百合アニメ」を望むオタクたちにはそこに自分の望む幸せな世界があると信じて多少の粗雑さには目をつぶってくれる。ここにこの作品の強烈な風刺性がある。
「事件は事故になるし悲劇は美談になる」
そして、しばらくすれば批評家オタクの指摘のようなノイズは忘れ去られ、みんなの記憶から消えてゆく。そして『リコリコ』は覇権アニメだったという「神話」だけが後に残る。
『リコリコ』を百合アニメだと思いたい奴はそう思えばいいし、途中から失速していった残念なアニメだと評したい奴はそうすればいい。でもいずれの評価も『リコリコ』の射程の範囲内に収まってしまう。
現実世界の「リコリコは終盤がダメ」とか「DAや司令部が無能過ぎる」という否定的な意見さえ「真島」というジョーカーによって作品に包摂され、更に「女の子の日常がメインの作品に何言ってんの?」「百合アニメとしては完璧なんだからいいじゃん」という多数の「ファンの声」によって封殺されていくまでの流れが、奇しくもラジアータによる情報統制という形で作中に描かれている。(本来イタいだけの「信者の声」がスペードの3の役割を果たす)そのくらい懐の深い作品である。
井ノ上たきな
これも3話辺りまで視聴した後では不可逆的に認知が歪まされてしまうという恐ろしい現象が確認されていて、ラジアータによって洗脳されたオタクには絶対に聞き容れてもらえない話なのだが、『リコリコ』の中核をよく吟味すると本作は百合アニメではない。この作品の中心は「千束と真島」であって、たきなは千束によって人生を変えられた主要キャラの一人に過ぎない。
繰り返しになるが、こんなことを真島さんよろしく真顔で言ってももう誰も信じてくれない。「ちさたきこそが今期最強のカップリングだろ?」と一蹴されてしまう。冬コミではリコリコ島がいくつも出来るのだろう。
これが意図的に作られていたら本当に面白いと思う。メインカットや二人のヴィジュアルがあまりにも魅力的で可愛らしいので「この二人の物語に違いない」と先入観を抱いてしまうが、全13話を視聴してから改めて考えるとやっぱり違和感が残る。
まさか真島が千束の運命の人で、たきなは千束の相棒(真島にとってのロボ太くらいのポジション)でしかない。
穿った目線で確認すれば『リコリコ』が千束と真島の物語である描写は数多く存在する。
・千束と真島はともにアランチルドレン
・千束と真島は「殺しの才能」の持ち主
・千束が心臓手術後に初めて対峙したのが真島
・千束が初めて「殺さなかった相手」が真島
・千束と真島と再開するのが第1話
・千束が真島と戦った思い出の場所が旧電波塔
・保存されている電波塔=ちさまじの関係性が生きている証
・共に「やりたいように生きる」価値観を持っている
・終盤の展開
・千束が明確に殺意をもって殺そうとした相手は真島
同様に千束とたきなのバディものではな理由もいっぱいある。
というか、圧倒的な強者の千束はほとんどサポートすら必要としておらず、たきなが参戦する必要性がない。そして本当に千束がピンチに陥った時には大抵たきなはその場に居合わせることができず、千束を救えないのだ。(6話、9話、11話、13話)とにかくたきなはいつも間に合わない。だからよく走っているのだ。
そして結局たきなは千束の人生観を揺るがすことができなかった。千束は最初から最後まで孤高で、「ヨシさんにもらった命だから殺しはしない」は今後も続けるのだろうが、とうとう最後まで「たきなのために生きる」とは言わなかった。
「千束によって人生を変えられた主要キャラの一人」というだけでは、井ノ上たきなはフキやミカと同じランクに過ぎないのだ。
でもこうやって穿って見る『リコリコ』は全然面白くない。やはり1話から「たきなの視点」で描かれる千束の物語として見るからこそ『リコリコ』は面白いのだ。
こうして結局気づきかけた不都合な真実には目を背けて『リコリコ』の表面的な明るさ、楽しさ、可愛らしさだけを摂取していくのがこのアニメの「正しい見方」なのかもしれないし、そうやって忘れようとしても、心の中の真島が時折マジレスしてくる声に耳を傾けるのが「正解」なのかもしれない。こういう厚みがある作品だと思っている。
ここまで一通り考えてから見る13話はまた違った面白さがあった。是非今年の夏最高に盛り上がった変わったアニメを見てみてほしい。
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