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そろそろ、本当の風の時代になるってよ

風の時代、風の時代ってここ数年言われてきたけれど、本当に本格的な風の時代の突入は今月20日らしい。
じわじわと土の時代から風の時代に移行がはじまり、20日、完全にスイッチするのだとか(星詠みとかドシロウトなので間違ってたらすいません)

この「風の時代」「土の時代」というもの自体にはピンとこないが、集団行動をし安定を求める土の時代が今までの時代で、個人活動から自由に生きる風の時代がこれからの時代…程度の解釈をしている。

私自身はどう考えても「土の時代」に合わない人間で、集団行動は嫌いだし安定に興味はないし、いつでもやりたいことを追いかけて自由に動いていたい人間である。
これからは風の時代だと騒がれ出したコロナ禍頃から、今まで漠然と感じていた生きづらさのようなものが日に日に薄れていくのを感じている。

占いというものはさほど信じる方ではなかったけれど、風の時代と謳われた時代変化が「なるほど」と思えるものばかりで最近は作業中に占星術のYouTubeを流す機会も増えた。
そして「これからはこういうことが起こります」「こんな変化が起こる人が出てきます」みたいなコトバを聞いては「ふぅん」と何気なく記憶の片隅にそれを置いている。

11月20日が近づくにつれて「覚醒」というか、波動の上昇とやらが起こる人が一気に増えるみたいな話もあって、自分もそれに関わることってあるのかなぁと思ったりしていたのだけど、先月あたりからどう考えても色々自分の精神状態がおかしい。

年に何回かなるんだけど、あえて映像的な表現をすると「心の中に水面を感じる」ような感覚になるのだ。言葉が水滴みたいに心にぽたんと落ちてきて、心に波紋がゆっくり広がる感覚。

とにかく静かなのだ。雑音がなくて、大きな水の流れもなくて、一つ一つの情報が一粒の水滴みたいに丁寧でゆっくり。

そんなこと言われても誰一人理解出来ないとは思うけど、私は、この状態になると恐ろしく心が静かになる。雑音になるようなものが入ってこようとすると、迷いなくシャットアウトする。

前になったのは次女が幼稚園卒園時期が近づいてくるに従って幼稚園に行かなくなったときだ。あれこれ悩んで行動してうまく行かなくてどうにもならなくて、考えて、考えて、考えて…とやっているうちにどんどん思考が静かになっていった。

あの時期に収録していたVoicyの声を聴くと、何かが違う。喋っているときも自分が自分じゃないみたいだった。どこか離れたところから自分の声を聴いているみたいな感覚。

最近、ちょっとまたその状態になっている。
でも次女が幼稚園に行かなくなったときみたいに、ひとつの大きな悩みがあって延々悩んでいるということはまったくない。むしろ今はそんなに悩みらしい悩みはない。

…いや、あるといえばたくさんある。
が、それは今の話ではなく、昔からずっと自分のそばにいる悩み。
ある意味昔からずっとそばにいる悩みだからこそ、もうそこにあることが当たり前になりすぎて、そこにいることを忘れていたようなもの。

その忘れていたものを徐々に思い出して、隣にいたはずの悩みが正面に位置を変えてそこにいる。見ないようにしていたものが視界に入ってくる。
そんな感覚は、あるにはある。

風の時代突入は「破壊と再生」であるとかなんとか、そんなお話を聞いた。土の時代に合わなかった自分自身のアイデンティティは風の時代であればむしろバッチリハマるものも多いような気がする。

自分自身が世界に合っていないと思っていた土の時代の自分を破壊して、風の時代を軽やかに再生して生きろとか、目には見えないなんだか不思議な何か大きな力が自分の心を静かにしようとしているんだろうか?

最近、やたら夢を見る。
朝、目がさめたときに特定の言葉や映像が頭の中にこびりついていることもある。

先日は、目覚めた瞬間から自治体で開放しているルームランナーの映像がずっと頭に残っていた。
「走りに行かなければ」と、目が覚めてからずっと思っていて、子どもたちを学校に送ったあと当たり前のように走ってきた。

そうしたら、ここ数ヶ月何故かずっと痛かった右肘の痛みが軽くなった。
3日ほど連続して走ったら、今はもうほとんど残っていない。
なんで走ることで右肘が治るんだよ、という感じだが、腕を上げる度に重苦しかった腕が嘘のようになんともないのだ。
血行が原因だったのだろうか。走れば血行が良くなって痛みは治るよというメッセージを受信した結果、ルームランナーの映像になったのか。

そういう「目が覚めた瞬間にその日やるべきこと」みたいなものが頭にこびりついている日が何回か起こっている。

そして昨日。目覚めたときにある文章が頭の中で繰り返されていた。

「今 世界のどこかで 青に変わった信号」

という文章。
これ、確か何かの歌の歌詞だったな…と、その文章を検索した。

BUMP OF CHICKENの「Flare」という曲の歌詞だった。

今度は「この歌を聴け」って言われている気がして、聴いた。
そしたら歌詞が今の自分に必要なことばだった。

なんかうまく説明出来ないけど、今の自分に必要なものだった。

とりあえず曲聴いたあと昂った気持ちでそのまんま喋った。

頭の中にこの曲の「世界のどこかで青に変わった信号」という歌詞がずっと残っていたのは「進んでもいい」というメッセージだったんじゃないかと思っている。

何が許せないの 何を許されたいの
いつか終わる小さな灯火

Flare 歌詞

私は、この発信活動をし始めた最初のころ。
自分の言葉は「怒り」だと思っていた。理由はよくわからない。ただ漠然と頭の中で、私は「今まで自分が言えなかった、世界に対する怒りを発信するのだ」と思っていた時期がある。

今も多分ずっと何かを許せていない。
だからそれに対する怒りを吐き出してきた。

でもいつからか、自分の言葉から「怒り」が消えている実感がある。
多分それは矢野先生のカウンセリングで怒りを表出させたときからではないか、と思っている。

カウンセリングを受ける前の私はそれなりに炎上を繰り返していた。多分、年に数回燃えていた。
自分に対してひどい言葉をぶつけてくる存在に対しても怒りを抱いていた。抱くだけで吐き出しはしない。その抱いた怒りを次のことばにこめる。
怒りに怒りを重ねて、怒りは怒りを呼び寄せてまた炎上する。
怒りはひたすらに他者を媒介して膨らみ続けた。

でも、最近は炎上していない。

それは「怒り」ではなくことばに込めるものが「願い」に変わったからだと思っている。

誰かから何かを許されたい。そんな願い。

そのうち自分にも死が訪れる。
いつか終わる小さな命の灯火。

何かを許したくて、何かを許されたい。

そんな自分が何年も抱えてきた思いすべてをたったこの一言に詰める藤原さんの歌詞力…。

鼓動が星の数ほど 混ざって避けあって行き交って
迷路みたいな交差点 大丈夫 渡れるよ

Flare 歌詞

人の中に混じりたいけど、きっと混じろうとしたら弾かれる。
だって今までもずっと弾かれてきたから。

自分の目に映る信号の色が赤であることを言い訳に、いつまでも渡ろうとしていなかった交差点。

でも、信号は青に変わった。
「大丈夫 渡れるよ」というこの歌詞を聴いたら、なんだかこう、胸が軽くなったような感じがあったのだ。
あー、どんな人の波の中も怖がらずに渡れる気がする、と、素直にスッと思えたのだ。


とはいえ、交差点に踏み出したとしても、自分がどこに向かって進みたいのか良くわかっていないのだけど。

心の中で自分自身に「許可」を出さないと行動出来ない何かがあったのだとしたら、この曲を聴いて何かに対する「許可」が出た感覚がある。

今日の記事、何言ってるんだかわかんないですね。

ふわふわとした感覚的なものでしかないけれど、ただその感覚を文字にして残しておきたかった。今日の記事は、それだけの記事。

最後まで読んでくれてありがとう。

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水谷アス
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