誰のための運動会か
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うちの長女、ハナは運動会が嫌いだ。
4歳まで通っていた保育園では、毎年わけもわからず出ていた。
わけもわからず出ていたので、競技のルールなどがまったく理解できなかった。見に行ったときは固まっている方が多かった。
どうしてみんな、当たり前に「ヨーイドン」でスタートして走り出せるのに、うちの子は走れないんだろうと思っていた。
発達障害のことを色々知って、あの運動会では出来なくて当然だったなと思った。
ガチャガチャと常に音楽がかかり、肉声より聞き取りづらいエコーのかかったマイクの先生の指示。
大きなピストルの音。
たくさんの知らない人の目。
視覚支援なんてない。
雑音だらけの場で全てが音声指示。
ハナにはつらい場だったと思う。
年長のときだけ支援に力を入れている別な幼稚園に通った。
ここの幼稚園の運動会は素晴らしかった。園全体で支援体制を作っているのでどの先生の声掛けも的確だった。
視覚支援があったり、競技と競技の間の流れもスムーズで、”本人がわからなくなる”ことはなかった。
余計な音楽もかかっておらず、気が散ることもなかった。
先生はボディランゲージと拡声器で喋っていた。
ピストルはなく、笛だった。
その後の小学校の運動会は、特別支援級に合わせてくれているわけではないので、理解はあってもここの幼稚園ほど全てにおいて支援が行き届いてはいない。
公立学校にそこまでを求めてはいない。
むしろ前の幼稚園がすごすぎただけだ。
多分、幼稚園のときの運動会が唯一、本人が楽しく出られた運動会ではないかと思う。
小学校1年のときの運動会。
踊りは踊れた。頑張っていた。
けど、競技系はダメだった。
玉入れは玉をひとつも投げることなく私に張り付いていた。
徒競走は、確か走らなかった。歩いた。
あえてのビリを選択した感じだった。
2年のときの運動会は、競技に出ないで補佐として参加した。
徒競走のゴールテープを持ったり、競技に使う用具を運んだりする係をしていた。
走ってきた子がゴールするときテープを高く掲げて、走ってくる子はその下をくぐる。
テープの上げ方が甘かったか、走る子の頭の下げ方が甘かったか、テープに頭が引っかかって、それに引っ張られて転んだりもした。
でも、それでも最後までやり遂げる姿に少し目頭が熱くなった事を覚えている。
3年の運動会は、もう出たくないと言った。
補佐も嫌だと言った。あの場の雰囲気が、空気が嫌なんだと。
ギリギリまで迷ったが、最終的に、出なくていいということにした。
運動会を休んでアサリを掘りに行った。とても楽しんでいた。
私も私で他の子が”まとも”に頑張っている中で、うちの子だけが固まっていたり、参加出来なかったり、違うことをしていたりするのを見るのは複雑な気持ちになってしまう。
普通であることを求めないようにしたいと思っているのに、どうしても、近くにいる他の子供達と我が子を比べてしまう。
それがつらい。
我が子だけを見ていれば、その子の成長はわかるのに、周りの子が出来ている事が我が子には出来ないという事実がよく見える行事では、つい比べてしまう。
だから、私は運動会を見に行く事がとても憂鬱だった。
周りの親が写真を撮るだのムービーを撮るだの張り切っていても、私は毎年張り切る事はできなかった。
夫はとても素直な人なので「去年のハナが出来なかった事を今年は出来るようになっている」というところだけをみて、感動して、泣く。
私もそうありたいのに、どうしても、そうでないところを見てしまう。
そういう自分が嫌にもなるので、ハナの運動会を見に行くのは嫌なのだ。
下の子は固まったりしない。
たまに逃亡するが、楽しんで見られる範疇。
練習した踊りを、親を意識してプリプリ踊るのが可愛い。
競争ではゴールしたあとにこっちにピースしてくる余裕さえある。
運動会を楽しみにする親の気持ちがようやく少しわかった。
子どもが楽しそうに参加するなら、親も楽しいのだと。
今年もハナは運動会は出ないと言った。
3年で一度出ない選択をしたから、もう本人に全く迷いがない。
いっそ清々しくもある。練習はやるが、本番には出ない。
去年は「もしかしたら出るかも」とあやふやに練習に参加していたが、今年はきっぱりと割り切っているようだ。
例年、運動会が近づくと登校拒否をすることが増えていた。
練習の時間が増えることは、本番が近づく事を意味する。
練習で同じことを繰り返すことは、本番での成功のためでもある。
運動会が近づいて、練習の時間が増えれば増えるほど、ハナは学校に行くのを嫌がった。
しかし今年は、一度も登校拒否をしていない。
しかも練習にはとてもいきいきと参加しているそうだ。
多分『練習の先に本番がない』からだ、と私は思う。
練習は「失敗してもいいもの」で、本番は「成功したほうがいいもの」だと思う。本人がどう思っているかはわからないが、少なくとも私はそう思う。
一番楽しんで参加していた幼稚園の運動会。
走り方のフォームがとてもいいと褒められ、みんなのお手本として走ったと教えてくれた。練習のときは徒競走で何度も一等賞を取っていた。
なので本番も一等をとるのだと張り切っていた。
そこの幼稚園は明確に「順位」を掲示しないので、結局一等だろうがビリだろうがそれが記された何かを渡されたりすることはない。スタートからゴールまで走りきった、それだけで頑張ったねと言ってくれる。
だが、ハナはそれでも最初にテープを切る、一等賞が欲しかった。
そのために公園に行ってかけっこの特訓までしていた。
本番。
1位と2位が競り合ってすごく微妙だった。
座席指定されて動けないことになっていた我々の席からは、ちょうどゴールの瞬間がはっきり見えなかった。
我々は「一等賞だった」ことにしてハナを迎えた。
でもハナは泣いた。一等ではなかったと泣いた。
本人の中では、自分は二等だった。
どんなに練習で一等を何度もとっていても、本番で二等だった時点で、楽しみだった運動会は一気に悲しい思い出になった。
運動会が終わってご褒美に大きなパフェを食べに行った。ハナは泣きながらパフェを食べて「最低の運動会だった」と言った。
朝まではあんなに、楽しみで最高の行事だったはずなのに。
ハナにとって、本番の失敗ひとつが練習の成功全てを塗りつぶすものなのだということがわかった。一等じゃなきゃいけないわけじゃないよ、たくさん頑張ったという事実はちゃんとあるんだよ、という大人の言葉が彼女の心に届くことはなかった。
だから、ハナは多分『本番』が嫌いだ。
特に順位など明確な数字で結果が出る『競技』が嫌いだ。発表会なら大丈夫なのは、結果や成果があやふやだからではないかと思っている。
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